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第6回 2000年12月18日

  偉大な石の顔(第6回)


 此の間中、人々は帽子を投げ上げたり、叫んだりしていた。その熱狂ぶりは人から人へと、どんどん伝染して行ったので、アアネストにも伝わって来て、彼の心は燃え上った。そして、彼も亦同じように帽子を投げ上げ、あらん限りの大声を張り上げて叫んだ。「大偉人万歳! 老ストゥニ・フィズ万歳!」だが、まだ彼はその偉人を見てはいなかった。
「さあ来た、そら!」と、アアネストの近くに立っていた人達が叫んだ。「それ! それ!老ストゥニ・フィズを御覧、それから、山の老人を見るんだ。まるで瓜二つ、双生児のようじゃないかね!」
 この勇ましい行列の真中に、無蓋の四輪馬車が四頭の白馬に曳かれてやって来た。そして、馬車の中には帽子を被ぶらない大きな頭の大政治家、老ストゥニ・フィズ自身が坐っていた。
 「どうだい、」と、アアネストの隣人の一人が彼に云った。「偉大な石の顔は、とうとう自分の相棒に出くわしたよ!」
 さて、実を云えば、四輪馬車の中から会釈したり微笑したりしていた其の顔を最初ちらりと見た時、アアネストは其の顔と山腹にあるあの古馴染の顔との間には、似たところがあると実際思ったのであった。生(は)えぎわが抜け上って、気高く、頑丈な広い額や、その他一切の目鼻立ちは隈取もくっきりと際立ち、また強く造り出されていて、恰も勇者以上のモデル、巨人タイタンのようなモデルと相競っての造作らしいことは認めざるを得なかった。しかしながら、かの山の顔を輝し、かの重々しい花崗岩の物質を精神に霊化しているところの、崇高、威風、神の如き慈愛の雄大な表情などは、そこには、いくら探しても見付からなかった。何物かが、もともと初めから欠けていたのであった。或は無くなってしまったのだった。それ故に、この稀代の天才政治家は、彼の両目の深いくぼみの中に、常に陰暗な倦怠を持っていた。丁度、玩具を喜ぶ年頃を過ぎた子供の眼のようでもあり、又絶大な才能は持ちながらも、小さな目的しか持ち合せない人間__すべての高級な業績にも拘らず、其の生活が高尚な目的を全く欠いて、そこから生れる現実味と実質が無いばかりに、ただ空々寂々たる生涯を送った人__の眼のようでもあった。
 猶もアアネストの隣人は肱で彼の脇腹を突っついて、返答を迫っていた。
 「どうだい! 正直なところ! あの人、あんたが御贔屓(ひいき)のお山の老人と生き写しじゃないかね?」
 「ううん!」と、アアネストは素気(そつけ)なく云った。「私には殆ど、いや全然、似てるところが見当りません。」
 「そいじゃ、偉大な石の顔のために、お気の毒千万だな!」と、隣人は答えた。そして再び老ストゥニ・フィズのために喊声を張りあげた。
 しかし、アアネストは沈み勝ちな、殆ど絶望に近い気持ちで、顔をそむけて眼をそらした。つまり、かの予言を現実に完遂することも出来るほどの人物でありながら、そうしようとする心掛けのなかった人を眼にしたのは、彼の数々の失望の中でも最も悲しいものであったからである。とこうする内に、騎馬行列や旗や楽隊や四輪馬車は、騒々しい群衆を後に従えて、彼の側を威勢よく走りぬけて行った。後には朦々と立ちのぼる砂塵が残されたが、やがて、それが落付くと、かの偉大な石の顔が数知れぬ多くの世紀の間、身につけて来た、あの雄偉な姿を見せて再び現われた。
 「見よ、我ここにあり、アアネスト!」と、慈悲深い唇が云うかのように思われた。「私は、お前よりももっともっと長い間待ち続けて来た。それでも、まだ待ちくたびれはせぬぞ。気づかうな、その人は来る。」
 歳月はあたふたと進んで行った。急ぎの余り、先きの踵をあとの足が踏み付けて走った。そして、今や歳月は白い髪の毛を持って来て、それをアアネストの頭の上にばら撒き始めた。額には、尊ぶべき皺を、頬には溝を作った。彼は老人であった。しかしながら、無駄には年をとらなかった。頭の白髪の数よりも多く、心には賢明な思想が宿っていた。彼の皺も溝も「時」が刻みつけた銘の文字であって、「時」は、その文字を以て、一つの人生の進路によって試験された睿知の物語を書き記したのだった。かくて、アアネストは、もはや人に知られぬ人物ではなくなっていた。あんなに多くの人間が探し求める名声が、求めず、願わざる彼のところにやって来て、彼が是れ迄あれほど静かにずっと暮らして来た此の盆地の境界を乗り越えて、広い世界へと此の人を知れ渡らせたのであった。大学教授たちや都市の活動家連さえ、アアネストに逢って話をしようと遠方からやって来た。何しろ、この純朴な農夫は、常人とは異った思想を持っていて、それは書物から学び得たものではなく、もっと高い調子のもの、__まるで彼は日常の友として天使たちと話し合ってでもいたかのように、穏かな親しみ易い尊厳さを持った調子の考である、と云う評判が広く伝わっていたからだった。相手が賢人であろうと政治家であろうと、博愛家であろうと、アアネストは、幼少の頃から彼の性格であった。柔和な真心を以て、そうした人達を迎えて、何でも自分の心や訪問者たちの心の表面に浮んだ事やら、また心の奥底深く横たわっているものを、何事によらず腹蔵なく彼等と話し合った。一緒に話し合っている内に、彼の顔は知らず知らず生き生きと輝いて来て、柔和な夕べの光のように相手を照すのであった。こうして交した談話の内容が充実しているのに刺戟され、深く思を潜めつつ、彼の客人たちは暇(いとま)を告げて帰って行った。そして谷の斜面を上って行きながら立ちどまって、例の偉大な石の顔を眺めた。この顔に似た誰か人間の顔を見たように思うのだが、さて、どこで其れを見たものやら一向に思い出すことが出来ないのであった。

(つづきは: 第7回 2000年12月19日


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