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第7回 2000年12月19日

  偉大な石の顔(第7回)


 アアネストが、大人になり、又老人になったりしている間に、惜しみなく与え給う神は、地上に一人の新しい詩人を降し給うた。彼も亦同じように、この盆地の生れであったが、その生涯の大部分を、この浪漫的な地方から遠く離れた所で暮らして来て、内から迸り出る美しい音楽を都市の雑閙喧噪の中へと注ぎ込んでいたのであった。しかし、少年時代に彼が親しんだ山々は、屡々彼の詩の清澄なる大気の中に雪を頂く峯々をもたげたのだった。かの偉大な石の顔も忘れられてはいなかった。と云うのは、詩人は一遍の抒情短詩の中に、それを詠じて褒め称えたからで、その調子がまた頗る雄渾で、偉大な石の顔それ自身の荘厳な唇によって詠じられたと見えるほどであった。この天才は驚くべき才能を持って天降って来たのだと云ってよいであろう。彼若し山の歌を歌わんか、山懐に漂い、或はその頂へと天かけり登る雄大な威容は、今まで眺められていたよりも遥かに雄偉な趣を、全人類の眼に見せたのであった。彼若し美しき湖を歌わんか、則ち天界の微笑が湖水の全面に投げ拡げられ、湖上は永久に輝き渡るのであった。若し夫れ、広大無辺なる古き海を歌えば、深く広き青海原の神々しい表面も、詩歌の情調に動かされたるが如く、須叟にして常より殊更高く、波立ちうねるかと思われるのであった。かくして、世界は、この詩人が彼の多幸なる眼を以て是れを祝福した其の時から、全く別の、一段と良い様相を呈するに至った。造物主は自ら万物を創造した大詰めに、最後の仕上げの妙技として、彼を此の世に与え給うたのであった。万物創造は、この詩人が生れて来て、それを解釈し、かくして夫れを完成するまでは、終結しなかったのであった。
 人類同胞が彼の詩の主題になった時にも、その詩の人を動す効果は負けず劣らず高く又美しいものであった。彼が日常、途上で擦れちがう、世の俗塵にまみれた男も女も、道で遊ぶ幼い子供などにしても、一度び彼が詩的信念の気分で是れを眺めれば、彼等は栄光に照り輝かされた。彼は、これらの人間を天使の一族と結び合わせている、大きな連鎖の黄金の環をありありとさし示した。人間をして、天使の血筋を引いているのに恥じざるものたらしめる特質__人類が天界で生まれて賦与された神々しい特性__を隠れた所から引きずり出して、まざまざと眼の前に描き出してくれるのであった。尤も、世間は様々で、或る人々は自分の判断の適正なことを証明するつもりで、自然界の総ゆる美と威容とは、ただこの詩人の空想の中にのみ存在するのだと確言した者もあるにはあった。かかる輩(やから)には勝手に何なりと云わせておけばいい。彼らは疑もなく、自然の女神によって、嘲弄的な、苦々しい気分で、産み出されたもので、彼女は豚どもを一つ残らず造り上げたあとで、使い余った半端な残り屑で以て、この輩をでっちあげたのであるらしい。その他、一切の事に関して、この詩人の理想は最上の真理であった。
 この詩人の詩歌は、自然、アアネストの手にも入るようになった。彼は、いつもの労働の終った後、彼の田舎家の戸口の前のベンチに腰かけ、それらの詩を読んだ。そこは、随分長い間、彼が休憩の暇々に、あの偉大な石の顔を眺めては考に耽り、想を練って来た場所であった。そして今、彼は身内の魂をぞくぞくふるい立たせる感動的な詩を一節一節と、読んで行くままに、眼を挙げては、かの広大な顔貌を眺めるのであった。顔はいとも慈悲深げに、彼に対し微笑を輝かせていた。
 「おお、尊厳な友よ、」と、彼はかの偉大な石の顔に話しかけて囁いた。「この人こそ、あなたに似る価値を持った人物ではありますまいか?」
 石の顔は微笑するように思われたが、しかし一言の答(いえら)もなかった。
 さて、この詩人は大層遠方に住まってはいたけれども、偶然アアネストのことを聞き知ったのみならず、その性格についても多分に沈思熟慮を重ねていたので、遂には、此の人__他から教えられたのでない其の人の智慧が、その生活の高潔な純朴さと手に手を取って歩んでいる人格者__に、何としても、逢いたいものと考えるようになった。そこで、或る夏の日の朝、彼は汽車に乗って出かけ、その日の午後、夕暮れ初める頃に、アアネストの田舎家から程遠からぬあたりで下車した。以前ギャザゴゥルド氏の宮殿であったと云う大きなホテルは、遂い手近かにあったけれども、詩人は絨氈製の手提げ鞄を腕に抱えて、直ちにアアネストの住んでいる所を問い糺し、彼の客にして貰おうと決意したのであった。
 入口に近づいたとき、そこに一人の好々爺がいるのを見た。手に一冊の書物を持ち、それを読んでは、指を一本、貢と貢の間に挟んで、偉大な石の顔を懐しげに眺め、又読んでは眺めていた。
 「今晩は、」詩人が云った。「旅の者ですが、一晩泊めて頂けましょうか?」
 「お安い御用です、」と、アアネストは答えた。それから微笑みながら、こう附け加えた。「偉大な石の顔が見知らない方に対して、こんなに愛想よい相好を見せるのを、私は今まで見たことがないと思いますよ。」
 詩人は彼の傍の腰掛に座った。そして彼とアアネストは互に語り合った。詩人は是までたびたび機智に富んだ人々や賢い人々の一流どころと交際して来たのであったが、併しアアネストのような人と話し合ったことは是まで絶えて一度もなかった。この人と云ったら、その思想や感情が如何にも自然に淀みなく迸り出た。そして世の大真理を語るにも、其の単純な言葉ずかいによって如何にも親しみ易いものに言い表すのであった。今迄もよく噂されていた通り、彼が野良で働く時、彼と一緒に天使達も働いていたのかと思われた。又爐辺でも天使たちが彼と一緒に坐っていたのかと思えた。又彼は、友達が友達と仲よく暮らすように、天使たちと一緒に暮らしていて、天使達の崇高な考を吸収してしまい、そして気持ちのいい平易な日常用語の魅力をそれに染み込ませたのであった。と、斯様に詩人は考えた。そして、他方、アアネストの方でも、詩人がその精神から外へ投げ出して見せてくれる種々な生き生きした影像__夫れが又快活であると同時に瞑想的でもある美しい様々な形体となって、この百姓家の戸口の辺りの空気の中に賑々しく去来した__に依って心動かされ、感激措く能わざるものがあった。これら両人の同感共鳴が彼等を教えるに当っては、どちらも一方だけでは到底思いも及ばぬほど格別深い感覚を与えるのであった。彼等の精神は相和して一本の調子を形成し、楽しい音楽を奏でた。それは彼等孰れの一方も全部が我がものだとは言い切れぬものであり、又これだけが自分の持ち分、そちらが相手の分と別目(けじめ)を付けることも出来なかったであろう。彼等はお互に導き合って、言わば、彼等の思想の高い堂奥の中へ深く引き入れたもので、そこは余りに遠く世俗から懸け離れ、また今まで余りに薄ぼんやりとほの暗かったために、是まで一度も這入ったことがなく、而も又いとも美しい所なので、何時もそこに居たいと思うほどであった。

(つづきは: 第8回 2000年12月20日



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