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2000年12月22日:本田宗一郎物語(第2回)

  本田宗一郎物語(第2回)

「鍛冶屋にならない? じゃあどうするの」
 驚いて手をとめた祖母に、宗一郎は胸を張って応えた。
「ぼくはね、デンキの人になるんだよ」
 今世紀、人々の日常を一変させた発明のひとつに電気がある。このころ、その電気が本田家の暮らす光明村にもようやく引かれ、家々にまぶしい電灯がともりはじめていた。宗一郎は高所でてきぱきと仕事をこなす電気工の姿にすっかり魅了され、あこがれさえ抱きはじめていたのである。
 それはまた、宗一郎の夢の芽生えでもあった。宗一郎が魅せられたのは、実は電気工その人ではなく、彼が腰にぶら下げた袋に入ったとりどりの工具であった。さまざまな形や機能を持つ工具は、父の仕事場でなじんだ金槌や金てこ以外、それまでに触れたことはおろか、見たことさえないものばかりである。電気工の手に握られ、ひょいひょいと扱われては家々に電気をもたらすそれらが、宗一郎の目には魔法の道具に映っていたのだ。
 そうやって、便利さや快適さをストレートに「道具」と結びつける点に宗一郎のひらめきと天才はあった。だが、それだけでは切れ味の鋭い冷酷な刃物と同じである。そこに人間的な感情を持ち込んだ、いや、持ち込まざるを得なかった血潮の熱さこそが、宗一郎の非凡さであった。そしてその非凡さは、故郷・光明村のゆたかな自然と数多くの友人たちとの交流によって、のびのびと育まれていったのである。

 大正3(1914)年、盛夏。山東尋常小学校二年生となった宗一郎は、遊び盛りの季節を迎えていた。前年には弟の弁二郎が生まれていたが、兄らしい自覚などどこ吹く風、弟の世話に母と祖父母の手がかかるのを幸いとばかり、野山を駆け、着物を脱ぎ捨てるや二俣川飛び込み、それでも遊び足りない日々である。
「幸次、喜代次、見てろよ。飛行機の直滑降だーっ」
 水面に高く突き出た樹木の枝にすっくと立った宗一郎は、自身が一本の枝と化したかのように、頭から川に向かってまっすぐに身を躍らせた。高々と水柱が立ち、ややあって、川面に濡れた顔を突き出す宗一郎に、
「すげえよ宗ちゃん」
「あそこからじゃ大人だって怖いぞ」
 これも褌ひとつで川遊びに興じる二人の友は、口々に賛辞を送った。
 笹竹幸次、そして竹内喜代次。この二人は宗一郎の一番の友人として、光明村での少年時代をともに駆け抜けてゆくことになる。
「よおし、もう一回飛ぶぞーっ」
 宗一郎は表情を輝かせ、抜き手を切って岸へと近づいていった。
 今でこそ村では及ぶ者のない泳ぎの名手となった宗一郎だが、そこに至るエピソードには、いかにも宗一郎らしい真剣さとおかしみが満ちている。
 わずか一年と少し前、小学校に入ったばかりの宗一郎は、水に近づくこともいやがる少年だった。集団での遊びが始まってすぐに、泳ぎを知らない自分に愕然とした宗一郎は、来る日も来る日も考えつづけた。
「何か泳ぎがうまくなる方法はないだろうか……」
 水に身をさらさない限り答は出ない。だが宗一郎は、その水が怖いのだ。下帯ひとつで川に飛び込み、歓声をあげる同級生たちを遠くから眺めては帰宅する毎日が続いた。暑い夏だった。着物の下の自分の体に、このときほど落胆したことはなかった。
 そんなある夜、宗一郎は意外なところに突破口を見出す。寝物語に祖父が語ってくれた『舌切り雀』の幕切れがそれである。
「悪いおばあさんがつづらを開けると、中からおばけがうようよ出てきて、おばあさんをぺろりと食べてしまいましたとさ。……舌切り雀、一巻のおわり」
 おばあさんを食べる。眠りに落ちるどころか、宗一郎の好奇心はたちどころに目を覚ました。
「ねえ、どんな味だったんだろう、おばあさんの味って」
「さあねえ」
 添い寝をするうち、自分の方が眠くなった祖父があくび混じりに応える。
「ねえねえ、人間って、食べられるの?」
「たべて食べられないことはないだろうねえ。遠い南の島には人喰い人種がいるそうだから」
「えーっ、ほんとに?」
「ほんとうさ」
 絶句する宗一郎に、祖父は半分眠りながらことばを続けた。
「でもねえ、おいしいから食べるってものでもないらしい。人の肉を食べると、その人が生きているときに持っていた力や魂が、自分のものになると信じられているんだよ」
 これだ。
 そのまま眠ってしまった祖父の隣で、まんじりともせずに夜を明かした宗一郎は、戸外に夏の光が射しはじめるや、誰も来ないうちにと川へ走った。
 脱いだ着物を石の上に乗せ、こわごわと浅瀬に足をつける。水が膝までくるあたりまでゆっくりと進んだ宗一郎は、そこで大きく息をついた。
 肉を食べると、力が自分のものに。
 力。泳ぎ。魚。
 泳ぎのうまいメダカを毎日何匹か飲み込んだら、その力が自分のものになるかもしれない。いや、必ずなる。そう信じ込んだ宗一郎は、メダカを捕りに川まで来たのである。
 泳ぎの巧みなメダカは、逃げ足も速い。足をすべらせて何度もずぶ濡れになりながら、宗一郎は必死でメダカの魚影を追った。つかまえては、一匹一匹、気味悪さをこらえて飲み込んだ。そんな朝が何日も続いた。
 そしてある日、ぽかりと水に体が浮かんだ。

2000年12月23日:本田宗一郎物語(第3回) につづく


参考文献:「本田宗一郎物語」宝友出版社、その他



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