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2000年12月24日:本田宗一郎物語(第4回)

  本田宗一郎物語(第4回)

「お前のわるさは度が過ぎとるッ!」
 父の儀平にいきなり怒鳴りつけられ、宗一郎の頭のなかは真っ白になった。口いっぱいに押し込んだ飯を飲み込んでいいものかどうか、そんなことまでわからない。目を白黒させる宗一郎に、儀平はさらにたたみかけた。
「大切な時間を狂わせるようなわるさは絶対に許さんッ!」
「でも、どうして、こんなに早く……」
「二俣の町に、たまたまお前の顔を知っている村の人が用足しに行っていたそうだ」
 儀平は宗一郎を物置に引きずって行き、柱にぐるぐるとくくりつけながら続けた。
「逃げ出すところを見て、あれは本田の上の子にちがいないと。さっき、清滝寺の和尚さんがえらい剣幕で怒鳴り込んで見えた」
「ごめんなさい。腹がぺこぺこで昼までガマンできなかったから……」
「言い訳は聞かん! 村の人の話では、お地蔵さんの鼻を削り落としたとんでもないやつがいたというが、それもお前のしわざだろうッ」
「ちがうよ。いや、ぼくだけど、でもあれは鼻を落とそうとしたんじゃなくて」
 必死に言い募る宗一郎の縄の結び目を確かめ、
「とにかく今日は晩飯抜きだッ!」
 それだけを言い残し、引き戸を荒々しくびしゃんと閉めて、儀平は物置から出て行った。
「……あーあ、まいったなあ……」
 宗一郎が地蔵の鼻を削り落としたのは、決してわざとではなかった。学校の行き帰り、前を通りかかるたびに、鼻の形が悪いことが気になってならなかったのだ。ある日、ついにがまんできなくなった宗一郎は父の仕事場からタガネと金槌を持ち出し、補修に取りかかった。だが石は意外と固い。宗一郎が思いきり力を入れると、ぽろりと鼻が落ちたのである。
 宗一郎の物の形に対するそうしたこだわりは、やがてホンダの斬新なデザインへと昇華してゆくのだが、それはまだまだ先の話。今はただ、新たな空腹という敵に苦しみながら、暗い物置でうなだれるしかない宗一郎であった。

 いたずら好きの、勉強ぎらい。この時期の宗一郎を語るのに、ほかのことばは必要ない。工作と算数、理科は好きだったが、苦手な習字や綴り方、そして何より嫌いな修身(道徳教育)の時間は、教室から抜け出し、裏山で遊んでいることも多かった。そんなときは高い木によじ登り、こう叫ぶのが常であった。
「くそーっ。おれはこの山ん中から絶対に出て行くぞおーっ!」
 宗一郎は学問を嫌ったわけでは決してなかった。学校という場所が、宗一郎の目には、勉強という名を借りて、ひとつの型にはまった人間を次々につくり出す工場のように映っていた。それが不気味でならず、居心地が悪くて仕方がなかったのである。
 そんな宗一郎に、世界がバラ色に輝く時間がやってきた。夏休みである。
「ざまあ見れえっ、遊びまくれるぞォーっ!」
 帰り道、しきりにはしゃぐ宗一郎を前に、幸次と喜代次の顔色は冴えない。
「どうしたんだよォ、二人とも」
「弱ったよ。落ちたんだよ成績が……」
「オレも。かあちゃんのおっかねえ顔が目に浮かぶよ……地獄だ」
 しょげ返る二人に、宗一郎はこともなげに言った。
「見せなきゃいいよ。なくしたとか何とか言ってさ」
「ダメだよ。ハンコついてもらわなきゃなんないんだから」
 しきりに鼻水を拭い、宗一郎は一心に考えこんだ。やがて二人を見た顔には、何かを思いついた得意げな表情が浮かんでいた。ぶへへへへへ。宗一郎は盛大に笑い、
「まかしとけって」
 自分の胸をぽんとたたいた。

 どうしたら親に通信簿を見せずにすむか。宗一郎の頭にひらめいたのは、印鑑の偽造である。物置には誰も乗らなくなった古い自転車がある。自転車にはペダルがある。ペダルはゴムだ。あれを使って、ニセのハンコを作ればいい。手先が人一倍器用な宗一郎ならではの発想であり、悪知恵である。
 物置に飛び込み、目当ての物を手に入れた宗一郎は、その日の午後を、めずらしく自分を部屋にこもって過ごした。
 成果は完璧だった。墨を使って試すと、宗一郎が削り出したハンコは、見事に、くっきりと、長円に囲まれた『本田』の文字を紙に残した。
「よおーし、これなら先生にも絶対にばれっこないぞ」
 気をよくした宗一郎は、その夜のうちに、幸次と喜代次の分のハンコも彫り上げた。翌日、待ち合わせた寺の境内で、宗一郎は一夜の努力の結晶を、大いばりで二人に手渡した。
「ははーっ、どうもありがとうございました」
「宗ちゃん大明神さまーっ」
 ハンコをうやうやしく捧げ持つ二人に、宗一郎はきっぱりとした声で言った。
「さあ。夏休みは思いっきり遊ぼうぜっ!」
 最初の何日かの間は、永遠に続くかと思われる少年の日の夏休みも、いつからか、するすると糸を巻く軽やかさで過ぎ、だれかに夏をだましとられたような感覚ととともにぷつりと終わる。通信簿の悩みから解放された宗一郎たちの夏休みも、近くの光明山で戦争ごっこに興じ、秘密の洞窟でコウモリをつかまえ、あるいは二俣川で唇が青くなるまで泳ぎしているうちに、たちまち尽きた。
 そして、二学期の始業式の日には、思いもかけぬことが三人を待ち受けていたのである。

2000年12月25日:本田宗一郎物語(第5回) につづく


参考文献:「本田宗一郎物語」宝友出版社、その他



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