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2000年12月27日:本田宗一郎物語(第7回)

  本田宗一郎物語(第7回)

 「自動車だ。宗ちゃん、自動車だぞォ!」
 儀平の店に着物の裾をばさばさと乱して走り込んできた幸次が、いきなり大声で叫んだ。振り向くなり幸次をかっとにらみつけ、
 「じ、自動車だあ!? どこだっ!」
 叫び返す宗一郎を、幸次は早く早くッと促す。自転車の修理を手伝っていた宗一郎は、儀平に断りもせず、道具を投げ出して幸次を追った。
 「本物の自動車だぞ。もうすぐ自動車が来るんだよ宗ちゃん!」
 必死で走りながら、幸次は熱に浮かされたように続ける。かけっこでは勝ったことのない幸次を追い越そうかという勢いで駆けながら、宗一郎は声をしぼった。
 「だからどこに来るんだよっ」
 「この先だ。もうすぐこっちに来る」
 光明村から見たら大都会の浜松市内でさえ、まだ自動車がめずらしい時代である。村に自動車が来るなど、空前絶後の出来事であった。
 「幸次、まだ先なのかあっ」
 途中から喜代次も加わり、未舗装の道を三人は土煙を立てて走った。
 そのとき、まっすぐな道の先から、はるかに大きい土煙が上がるのが見えた。それを追うように、バダダダダダという耳慣れない音が地面をはって三人に近づく。
 「すげえ……」
 「本物だ。走ってる。走って来るよッ」
 初めてみる自動車に、宗一郎は、ぴたりと足を止めた。
 「おーい、危ないぞーッ」
 自動車の迫力に威圧され、道をあける大人たちが、道路の真ん中に突っ立つ三人に大きな声をかける。幸次と喜代次はあわてて飛び退いたが、宗一郎は一歩も動かない。エンジンの爆音に圧倒され、ぽかんと口を開けてただ自動車を見つめる宗一郎は、
「宗ちゃんッ!」
 幸次と喜代次に袖を引かれて、すさまじいまでのスピードで通り過ぎる黒い車体から辛うじて身をかわした。
「……行くぞっ!」
 すぐ横をかすめ去った自動車から一瞬遅れただけで、今度はその背を追って、宗一郎は再び駆け出した。逃がすものか。心が高ぶり、胸が苦しいほど動悸が速かった。
 もうもうたる土埃になかば隠されてはいたが、後ろから見ても、自動車の威容と存在感には凄まじいものがあった。でも、でも、それだけじゃない……。匂いだ!
 ガソリンの甘い匂い。焼けたオイルの切ないような匂い。それらは宗一郎を生涯とらえて離さないものとなるのだったが、宗一郎は、それをまだ知らない。
 その匂いを、さらにさらに胸いっぱいに吸い込もうとしながら、けんめいに走る宗一郎の脳裡に、二年前に見た曲芸飛行の光景がよみがえった。あのときも、これとよく似た匂いがしていた。だが、広い空に拡散し、匂いはずっと希薄だった。
 そうか。
 あのときに感じた胸騒ぎの正体に、宗一郎は今ようやく気づいたような気がしていた。あれは前ぶれだったんだ。おれに自動車を見せる前の、予告編みたいなものだ……。
 漠然と空を舞っていたあこがれが、自動車という形を得て、地上に降りて来ていた。目の前を駆けていた。
 こうして、宗一郎の夢は、文字通り地面に足をつけて走り始めたのである。

2000年12月28日:本田宗一郎物語(第8回) につづく


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