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2001年1月1日:本田宗一郎物語(第12回)

  本田宗一郎物語(第12回)

「あ、その片づけ、おれがやります」
「もう洗濯物はないですかーっ」
「おかみさん、角に新しい八百屋ができてましたよ」
 宗一郎の変化に、当初は戸惑いを隠せなかった先輩工員たち周囲の人間は、
「どうしたんだ、本田のやつ」
「この頃やけに明るいじゃねえか」
 と口々にささやきあった。それは、ただひとり事情を知る北沢も、内心で驚くほどの変貌ぶりだった。しかし宗一郎に、無理や、特別な何かをしているつもりはなかった。ただ単に心のスイッチを入れ替えただけである。いやいややっている限り、どんな仕事も負担や痛苦にしかならない。それは、"やらされている"と感じてしまうからだ。逆に、自分を楽しませるつもりで前向きにやれば、どんな雑務であれそれは喜びに、やる気に、ひいては効率のよさに通じる。両者の間にあるのは、気分ひとつの違いなのに、結果はまるで変わってくるのだ。宗一郎は、その事実を身をもって確かめていた。
 宗一郎の明るさは、取ってつけたうわべのものではなく、生来そなえていた性質そのものであった。迷いのふっきれた宗一郎は、素直で伸びやかな、少年時代の自分をすぐに取り戻していった。その頃から、新入り・本田宗一郎は、周囲の先輩たちから仲間のひとりとして、ごく自然に受け入れられていったのである。

 秋は駆け足で過ぎ、宗一郎が東京で初めて迎える冬が訪れた。この年の冬のある日、東京は記録的な大雪に見舞われる。雪に不馴れなドライバーたちは軽微なスリップ事故の山を築き、凍結によるトラブルも相次いだ。アート商会に運び込まれる自動車は後を絶たず、工員たちは早朝から息をつく間もなく仕事に追われた。
 普段は主に指示役である経営者の榊原も、自ら工具を手にして工場中を走り回る騒ぎである。そこに、帽子と外套をまとった全身を雪まみれにした新客がやって来た。
「修理をお願いしたいんだが……」
 もはや限界に近い多忙さに、榊原の声はいつにない苛立ちを帯びた。
「今はご覧の通りのありさまだ。だいぶ時間を見てもらわないとなりませんよ」
「何とかならんかなあ。今夜、どうしても自動車がいるんだが……」
 弱りきった客の声に、榊原のプロ根性が動いた。聞けば、故障個所はアンダーカバーのワイヤー切れだという。当時の自動車は、小石などの跳びはねからエンジンルームを守るため、鉄製のカバーを車体の下にぶら下げていた。それを支えるワイヤーが雪の重みで切れたのである。修理としては簡単な部類であった。
「とりあえず、自動車を雪のかからない場所に移動しておいてください」
「すまんな、なんとか頼むよ」
 請け負ったはいいが、手の空いている者はいない。思わずため息をつく榊原の目に、工場の裏口で、背中にしょった赤ん坊をあやす宗一郎の姿がとまった。
「すげえな、みんな真っ白だ。東京にも雪が降るんだなあ、ほら、見えるか?」
 本田! 榊原は大声で呼び、なにごとかと振り返る宗一郎に向かって、こう続けた。
「子守りはもういいから作業服に着替えてこい」
 意味をとらえそこね、ぽかんとする宗一郎に、榊原は重ねて言った。
「作業服だ。ぐずぐずするな!」
「は、はいっ」
 宗一郎は、草履を脱ぎ散らし、猛烈なスピードで階段を駆け上がっていった。

 比較的容易な作業とはいえ、条件は苛烈であった。車体の下にもぐりこんでみると、どこもかしこもかちかちに凍結している。手で払った氷雪のかたまりは宗一郎の顔を直撃し、片方のワイヤーが切れたまま固く凍り付いたカバーは微動たりともしなかった。その氷を取り除く作業に、手はかじかみ、指先はすぐに感覚を失う。おまけに鉄板は重く、その冷たさに宗一郎の両手はびりびりと痛んだ。鉄板の縁に空けられた穴にワイヤーを通して結び、もう一方の端をフレームに巻いて固定する。それを左右二か所に施す。通常であれば何でもない作業だが、あまりに条件が悪い。ひとつひとつの行程が難航の連続であった。
 だが宗一郎は嬉しかった。自分にチャンスが来たことよりも、今ようやくいるべき場所にいるのだという感慨が、胸をいっぱいに満たしていた。親しい友人に会えたときのような、なつかしい故郷に帰ったときのような、なんとも言えない気持ちだった。宗一郎は心の中で力強くつぶやいた。
「ここがおれの場所だ。これがおれの世界なんだ」
 氷点下に近い寒さも、時間の経過も、宗一郎の意識からは消えていった。休憩を呼びかける兄弟子の声も、その耳には届かなかった。

 「こいつは……」
 作業終了の報告を受け、宗一郎の仕事ぶりを点検した榊原は、感嘆を思わず声にしていた。悪条件下で時間こそかかったものの、仕上がりは驚くほど丹念だったのである。それは単なる仕事という範囲を超えていた。宗一郎が機械を愛し、この自動車の乗り手に対する深い思いやりまで抱いていることを、その仕事ぶりから榊原は読み取っていた。
 当の宗一郎は、冷えきった体を風呂でざっと流したあと、すぐに子守りに戻っていた。骨まで冷えた指には、まだ感覚が戻りきっていない。それが、宗一郎には誇らしかった。この指でおれは自動車にふれたんだ。その証拠がこれだ。宗一郎は心でそう叫んでいた。

 この大雪の日をきっかけに、宗一郎には修理の仕事が少しずつ回されるようになる。夢中で仕事に向き合ううち、東京での二度目の春、そして夏が、またたく間に過ぎて行った。
 その間に、何人かの兄弟子が独立して店を離れた。宗一郎の下には新弟子がひとり入り、雑用と子守りの係から宗一郎は完全に解放されようとしていた。
 そして、日本にとって忘れられない事件が起きるのは、この年の九月のことであった。


2001年1月2日:本田宗一郎物語(第13回) につづく


参考文献:「本田宗一郎物語」宝友出版社、その他

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