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2001年1月4日:本田宗一郎物語(第15回)

  本田宗一郎物語(第15回)

 鋭い観察眼と確実な腕。そして技術と経験。修理工としてぐんぐん力をつけた宗一郎は、親方の榊原からも一目置かれる存在となった。一人前として認められるというのは、たった一人でも仕事がこなせるということである。それを実証するように、ある日、宗一郎は榊原から出張を命じられた。
 行く先は岩手県の盛岡市である。消防自動車の修理がその目的であった。当時は、東北からわざわざ東京に仕事を依頼しなければならないほど、自動車修理工の数そのものが少なかったのである。
 数時間も列車に揺られ、宗一郎は盛岡の駅に降り立った。まだ冬には遠いが、さすがに北国の風は冷たい。旅の心細さも手伝って、宗一郎は小さく身震いした。
 駅には、やって来る専門家を歓迎しようと、消防署から出迎えの人間が来ていた。だが、若く、小柄な宗一郎の姿を見ても、それと気づいた様子はまったくない。
「あのう、消防署の方ですか?」
 人波に目を凝らしている男が身につけた消防団の印半纏を頼りに、もしやと思った宗一郎の方から声をかける始末である。
「見りゃあわかるべ」
 無愛想に応え、修理工らしき人影をなおもきょろきょろと探す男に、宗一郎は帽子を取り、緊張しながらも胸を張って言った。
「東京のアート商会から来ました、本田といいます」
 驚きと困惑に、男の顎ががくりと落ちる。
「……あ、あんたがァ? こりゃまた……。ま、とにかく宿へご案内すますから」
 歩き出してからも、男はしきりに首をひねり、時々振り返っては不審げに宗一郎を見ていたが、初めての町の景色が珍しく、右へ左へ視線を転じる宗一郎は気づかない。それほど長い距離を歩くことなく、男と宗一郎は一軒の旅館の入口をくぐった。
 格式と由緒ありげな、大きく立派な宿であった。玄関を上がると、板張りの広い廊下もきれいに磨き上げられている。不意に、宗一郎は自分の服装が気になった。一張羅の背広を着てきたとはいえ、決して高価な品ではない。旅館の立派なたたずまいと不釣り合いなのではないかと思ったのである。広い庭の樹木も手入れが行き届いている。さりげなく庭木を眺めるふりをしながら、宗一郎はガラス窓に映った自分の服装を真剣な目で点検した。
 案内係の女中は、そんな宗一郎を気にもかけず、すたすたと歩いてゆく。それに遅れまいと、宗一郎は小走りになってあとを追った。廊下が次第に狭くなり、ふと気がつくと、庭に接して続いていた窓も消えて、廊下の両側は暗い壁になっている。なおも歩き、宗一郎はようやく部屋に通された。
 そこは、女中部屋のさらに奥にある、裸電球ひとつの打ち捨てられたような小部屋だった。畳はけば立ち、空気は湿っぽく肌にふれてくる。長い間使われていないせいか、カビと埃の臭いがした。掃き出しの障子と雨戸をがたがたと開くと、すぐ外は薪の積まれた裏庭である。
「ここなら、くつろげるや」
 宗一郎は、たちまち安堵した。ようやく肩の力を抜き、荷物を置いた宗一郎に、女中がずけずけとした口調で声をかけた。
「小僧さんは東京から来んさった自動車の修理工さんだそうだけど、はァ、ずいぶんと若いんだねェ」
 小僧さん、と呼ばれたことに、さすがの宗一郎もカッとなって言い返す。
「年は若くても腕は確かですよっ」
 女中はにやにやと笑い、はァ、んだもんかねェ、と鼻にしわを寄せて言うと、上着をとろうとする宗一郎に手を貸そうともせずに、背中を向けて出て行った。
 ひとりになった宗一郎は、早く自動車に触りたい、と思う一方で、にわかに不安を覚えはじめてもいた。おそらく工具も十分でないこの地で、しかもたった一人で本当に修理ができるのだろうか……。これまで感じたことのない不安だった。
「親方に迷惑をかけるわけにはいかないもんな」
 そうつぶやくと、少しだけ力がわいたような気がした。そこに、折よく食事が運ばれてきた。一汁一菜の粗末なものだったが、その温かさが腹にしみた。あ、そういえば。緊張のあまり、上野駅を出てから何も口にしていなかったことを思い出し、宗一郎は小さく笑った。笑うと、力がもう少し増した感じがした。
 食事をすませると、やることは何もない。早めに眠って明日に備えよう。布団を敷こうとすると、大きなノミが何匹も飛び出してきて、宗一郎を悩ませた。
「まいったなあ……」
 しかし宗一郎の頭の中は、すでに明日の修理のことでいっぱいになっていた。いっそのこと、このまま修理作業に入ってしまいたい、そうも思ったが、長旅の疲れが出たのか、湿気を含んだ布団の重さを感じる間もなく、宗一郎は眠りに落ちた。


2001年1月5日:本田宗一郎物語(第16回) につづく


参考文献:「本田宗一郎物語」宝友出版社、その他

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