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2001年1月7日:本田宗一郎物語(第18回)

  本田宗一郎物語(第18回)

 初めての出張から宗一郎が帰京して間もなく、アート商会は古巣の湯島に帰ってきた。神田駅近くのガード下に仮住まいし、白タク、再生自動車となりふり構わぬ営業で苦難を乗り越えてきたアート商会も、ようやく本来の修理工場として稼動しはじめたのである。それと歩を合わせるように、関東大震災後の東京も目覚ましい勢いで復興していった。

 盛岡出張の成果は、現実面でも現れた。その月の末、宗一郎は生まれて初めての給料を手にしたのである。金額は五円。巡査の初任給が四十五円という時代に、給料と呼ぶにはほど遠い、小遣い程度の額だが、丁稚という立場に長くいた宗一郎にとっては初めての報酬らしい報酬であった。自分の手で金を稼いだこともうれしかったが、給料を渡されるときに榊原が言った、
「本田、お前ももう一人前の修理工だ」
 そのことばが宗一郎にとっては何よりの宝であった。
 宗一郎がこの給料で真っ先に買ったのは、金モールのついた帽子である。それは当時、自動車の運転手が必ず着けるトレードマークのようなものだった。その帽子をかぶった写真を、宗一郎は光明村の家族に宛てた手紙に同封した。一人前と呼ばれたことを誰よりも先に伝えたいのは、故郷の父と母、祖父母、そして弟の弁二郎であった。

 大正十五(1926)年が明けた。満年齢で二十歳を迎えるこの年、宗一郎は徴兵検査を受けた。結果は甲種不合格。担当した医師が、宗一郎を色盲と誤診したためである。徴兵を免れた宗一郎は、もう一年、お礼奉公としてアート商会で働くことになった。
 同じ年の12月、大正天皇が崩御し、裕仁親王が即位。年号も昭和と変わった。前年には国内初のラジオ放送も始まっている。のちに"激動"と冠される昭和時代が、いよいよ動き出そうとしていた。
 アート商会では、忙しい毎日が続いていた。人手不足は明らかだった。かつて十五、六人はいた工員たちが震災のあおりで一斉に帰省してからは、宗一郎と北沢、経営者の榊原のわずか三人でやりくりしてきたのだから無理もない。朝早くから深夜まで仕事に忙殺される宗一郎たちの前に、風変わりな青年が現れたのはそんなある日のことだった。
 仕立てのいいスーツを着こなし、髪をきちんと分けた細面の青年が最初にアート商会に姿を見せたとき、宗一郎と北沢はてっきり客と勘違いした。車はどこにあるのだろう、と怪訝に思ったほどである。ところが青年を見た榊原は、
「おう、待ってたぞ」
 となれなれしい声をかける。顔を見合わせる宗一郎たちに向かって、榊原はこう続けた。
「斯波(しば)くんという。今日からうちに来てもらうことになったから」
 宗一郎と北沢は、互いの顔を見たまま絶句した。青年のたたずまいが、今だ急ごしらえの工場にすぎないアート商会にはいかにも似つかわしくなかったからである。その理由は、榊原の次のことばで明らかになった。
「れっきとした華族のお坊っちゃんだ。よろしく頼むぞ」
 えっ。驚いた宗一郎は、斯波に向かって思わず言っていた。
「そんなお方がまたどうしてこんな汚い工場に」
 宗一郎の驚きも当然だった。華族といえば、爵位を持つ家柄の出身、海外でいう貴族である。斯波は、育ちのいい人間に特有の人好きのする笑顔を浮かべて、車が好きなんです、と答えた。
「知り合いからこの工場を紹介されました。とてもいい仕事をおやりになると聞いています。よろしくお願いします」
 すっと差し出された斯波の手を、宗一郎は抵抗なく握った。そうか、車が好きなのか。この男とは親しくなれる、そんな直感が動いた。
「本田です。こちらこそよろしく」
 宗一郎は強く握手した。今度は斯波が驚く番だった。
「わあ。ずいぶんごつごつした手ですね」
 そんな二人を見ていた榊原が、斯波に向かい、こころもち胸を張って言った。
「これが自動車修理工の手だ。君もこれくらいになるまで修業しないとな」
「はい」
 素直にうなずく斯波を、宗一郎は頼もしげに見た。
 これより二十数年後、二人はまったく別の場所、違う立場で顔を合わせることになるのだが、今はそれを知る由もない。別の場所の名は、本田技術研究所といった。


2001年1月8日:本田宗一郎物語(第19回) につづく



参考文献:「本田宗一郎物語」宝友出版社、その他


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