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2001年1月8日:本田宗一郎物語(第19回)

  本田宗一郎物語(第19回)

 多忙な日が続いた。新入りの斯波に修理工としての技術を期待することはできず、せいぜい雑用をこなしてくれる程度だったが、宗一郎たちにはそれだけでも大きな助力になった。また、斯波が加わったことは、宗一郎に思いがけない副産物をもたらした。官立の東京外国語学校を卒業していた斯波は、英語にすこぶる堪能だったのである。
「このラジエーターは、放熱するという意味のラディエイトから来ています。放熱するもの、それがラジエーターという言葉になるわけです」
「なるほどねえ……、放熱すれば熱がとれて冷える、だから冷却器というわけか」
 海外で生まれた自動車は、部品のほとんどが横文字から来ている。宗一郎は斯波の個人教授で、ことば本来の意味を少しずつ学習していった。
「アクセルは?」
「ああ、それはアクセラレイターという長い英語を縮めたものです。これも、速度を増すという意味のアクセラレイトから来ているんです」
「へーえ。なるほどねえ」
 これまで何気なく使っていた用語が、生きた手ざわりをもって語りかけてくるような気がした。自動車のメカニズムに対する宗一郎の理解は、こういし日ごとに深まっていった。

 夏のある休日、宗一郎は斯波と二人で浅草の町を歩いていた。浅草寺にお参りし、仲見世を冷やかし、歓楽街を眺めて歩いているうちに、もう黄昏時が近づいていた。
「斯波くん、お腹がすかないか」
「僕も今そう言おうかと思っていたんですよ」
 支那そば、つまりラーメンを食べることに決め、中華料理店ののれんを探して歩く二人に、街角から声をかけた者がいる。
「もしもし、そこのお若いお方」
 見ると、壁と電柱に貼り付くように、占い用の小さい卓を置いた手相見の老人の姿があった。卓の前面には、開いた大きな手のひらの絵と運勢判断の細かい文字を染め抜いた布が垂れ下がっている。
「どれどれ、手相を見て進ぜよう」
 長く陽にあてて、干して小さくなったような顔を頭巾と着物の間からちょこんと出した占い師が、意外にもよく響く声で宗一郎に言った。
「ああ、占いならいいよ、いらないよ」
「まあま、そう邪険にされずに。なかなかの相とお見受けしたのじゃ。そうそう、お代なら頂戴しませんぞ」
「ただ? あ、そう。それなら見てもらおうかな」
 現金な宗一郎を、斯波は苦笑して見ている。かろうじて尻が載る大きさの使い古された丸椅子におそるおそる座り、卓に置かれた小さい行灯の光に宗一郎は右手を差し出した。
「ほほう……」
 占い師は、虫眼鏡を大きくした形の拡大鏡を使って、たんねんに宗一郎の手相を観察すると、感心したような声を出した。
「やはりのォ。思った通り、これはなかなかの手相じゃ。将来、大変な成功をしますぞ」
 自分の言葉に興奮した老人は、立ち上がって両手でばんばんと卓をたたいて続けた。
「日本、いやいや世界に名を成す稀なる手相じゃあッ!」
「あ、ねえねえ、斯波くんも見てもらいなよ」
 へどもどした宗一郎が、占い師を落ち着かせようとして言う。どれどれ、と斯波の手相を眺めると、老人はにやりと笑って斯波の顔を見た。
「ほほう、これはおもしろい」
「大臣か何かになる手相でしょう」
 勢い込んで訊く宗一郎に、占い師は笑った顔のままで告げた。
「いやいや、この人はあなたの下で働くようになりますぞ」

 帰路、宗一郎は当惑と怒りをまぶした声で斯波に向かって繰り返した。
「あの易者はインチキだ。ひどいもんだよ。斯波くんが華族のお坊っちゃんと知ったら腰を抜かすよ、きっと。それで、ははあ、さっきの私の見立て違いで、とか何とか言うに決まってるよ」
 占いの老人の予言がやがて的中するのは、前に述べた通りである。二人は支那そばを食べるのも忘れて、赤い大きな夕陽に照らされた街を歩いて行った。

 アート商会の、すっかり手狭になった工場の増築を榊原が決めたのは、それから数日後のことである。年内に建て増しを終えようと、工事は急ピッチで進んだ。敷地には何人もの大工が日を置かず現れ、鋸や金槌を振るう音を一日中響かせた。その音が、宗一郎たちの耳には、アート商会が次のステップへ階段を上ってゆく音に聞こえた。いつも嗅ぎ慣れている油の匂いに、切られ、削られた木の香が混じる。それも、心がはなやぎ立つような刺激だった。
 工事が半分以上進んだある日、仕事を終えて食事をすませた宗一郎たち三人に、榊原から集合の声がかかった。あらたまって集まるなど、めずらしいことである。食卓はきれいに片づき、茶の支度だけがしてあった。背中を伸ばして座る榊原の前に、三人はかしこまってそろえた膝を並べた。その席で、宗一郎の歩みは新たな変転を迎えることになった。


2001年1月9日:本田宗一郎物語(第20回) につづく



参考文献:「本田宗一郎物語」宝友出版社、その他


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