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2001年1月9日:本田宗一郎物語(第20回)

  本田宗一郎物語(第20回)

 ありがとう。かしこまった宗一郎たちに向かって、榊原はそう切り出した。
「みんなのおかげで工場を拡張できるまでになった。本当にありがとう」
 感謝をこめた口ぶりで言い、三人に向かって頭を下げる。
「そんな、旦那さん、やめてくださいよ」
「そうですよ、礼だなんて」
 あわてた宗一郎たちは腰を浮かせて、口々に声をかけた。顔を上げた榊原は、新たな決意を表情に刻み、一番弟子である北沢の名を呼んだ。
「来年になれば新弟子も入って来る。そこでだ、お前には現場の責任者として働いてもらう」
「は、はいッ」
 緊張した面持ちで答える北沢から離した目を、榊原は斯波に向けた。
「斯波、お前にはまだまだ勉強してもらうことがある。これからも一生懸命やってくれ」
「はい、わかりました」
「ところで本田、お前だが……」
 はいっ、宗一郎は勢い込んで、榊原とがっちり視線を合わせた。
「精一杯、彦さんの手助けをさせてもらいます!」
「おお、オレ一人じゃ心細い。これからも力を合わせてやろう。頼むぞ本田」
「おれこそよろしく頼みます」
 手を取り合う宗一郎と北沢に、榊原は冷水を浴びせるような言葉をかけた。
「その必要はない」
 三人は思わず凍り付く。旦那さん、と北沢が語気を強めて詰め寄った。
「なぜです、なぜそんなことを言うんですか」
 榊原は腕を組み、静かな、しかし重みのある口調で言った。
「本田には、暖簾分けをしようと思っている」
 のれんわけ。その言葉の意味するものが宗一郎の頭の芯に届くまで、短い間があった。理解した次の瞬間には、頭のなかが真っ白になっていた。そこをスクリーンにしたように、この店を出る、看板を背負う、一人立ち、そんな言葉が次々に灯っては消えた。
「ほ、本田、よかったなあッ……!」
「本田くん、おめでとう」
 肩をたたき、手を取ってくる北沢と斯波の声も、その耳には届かない。でも旦那さん、しゃがれた声で、宗一郎はようやく言った。
「おれにはまだまだ教えてもらうことが……」
「いや、ない。お前に教えることはもう何もない」
「でも、でも新弟子も入って来るし、これからまた大変な時期に……」
 言い募る宗一郎の口に蓋をするように、榊原はぴしゃりと言った。
「本田、これはずっと前から考えていたことだ。浜松に帰って独立しろ」
 独立。宗一郎にはこれ以上なく重い一言だった。
「アート商会浜松支店だ。悪くないだろう」
 榊原が、微笑を浮かべて続けた。
「まだ年は若いが、お前の腕なら一人立ちしても立派にやっていける。頼むぞ」
 独立することは、この工場に、そして北沢と斯波、榊原一家に別れを告げることでもある。歓喜と寂しさ、未来から射す光と底知れぬ不安を混ぜ込んだような複雑な思いが、宗一郎の胸に渦巻いた。
「よおしッ。浜松と東京で競争だな、本田ッ」
 北沢の言葉に背中を押されたように、宗一郎は榊原に向かって深々とこうべを垂れた。何を口にすればいいのかわからなかった。波立つ心を静めて、宗一郎は噛みしめた歯の間から押し出すように言った。
「……アート商会の暖簾を傷つけないように、精一杯やらせてもらいます」
 平凡な言葉しか出なかった。だが、それは宗一郎の気持ちのすべてでもあった。

 昭和2(1927)年春、宗一郎は六年間の修業を終えて東京をあとにした。満二十歳にしての、若きメカニックの独立である。一路西へ向かう列車のなかで、宗一郎の胸にはさまざまな思いが去来した。次に東をめざすとき、宗一郎は"自動車レース"という新たな野望に挑むことになる。今はもちろんそれとは知らず、感傷と希望の間を、うとうととまどろむように宗一郎は行き来していた。


2001年1月10日:本田宗一郎物語(第21回) につづく



参考文献:「本田宗一郎物語」宝友出版社、その他


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