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2001年1月10日:本田宗一郎物語(第21回)

  本田宗一郎物語(第21回)

 六年の間に、堂々たる地方都市へと変貌した浜松を経て懐かしい光明村へ。久しぶりに見る郷里は、ほとんど姿を変えていなかった。ただ、自動車の数は格段に増えていた。それは宗一郎を驚かせ、勇気を与えてもくれた。修理工が求められる時代がやって来たのだ、という確実な手応えが感じられたからである。
 自動車がめずらしく、村に現れたと聞くや追いかけ回し、ガソリンの匂いに酔っていた頃を甘酸っぱく思い出しながら、昔に比べてどこか狭苦しく感じられる通りを、宗一郎は生家に向かってゆっくりと歩いた。急に顔を出してびっくりさせるつもりで、帰郷の予定は家族の誰にも告げていない。だが、『本田自転車屋』の看板が遠くに見えると、宗一郎の足は急き立てられるように早くなった。

「どうしたんだ、お前」
 背広に鳥打ち帽という自慢の一張羅に身をつつんだ宗一郎の顔を見るなり、父の儀平は問いつめるような声を出した。驚いたというより、ひどく切迫した表情である。
「まさか、東京の店を追い出されたんじゃないだろうな」
「父ちゃん、いきなりそれはないんじゃないの?」
 宗一郎はやや胸を反らして、浜松での独立を許可されたいきさつを説明した。
「そうか。……そうか、よかったな。それはよかった」
 儀平は何度もうなずき、よかった、と繰り返す。宗一郎の声を聞きつけて、店の奥から母が飛び出して来た。その目は、早くも涙でうるんでいる。
「母ちゃん……」
 宗一郎の心に、温かい湯のようなものが満ちてきた。父と母の顔を見て、故郷に帰った実感がようやく湧きはじめていた。

 それから間もない夕刻のことであった。
「宗一郎。……ちょっといいか」
 昔と変らない丸いちゃぶ台を家族全員で囲み、宗一郎が東京土産の雷おこしを広げたところで、父の儀平がやや固い口調で言った。幸い祖父母も健在で、幼なじみの喜代次まで加わった卓の周囲は互いの肩がくっつくほど狭い。もう一人の親しい遊び友達だった幸次が海軍入りしたことなど、昔なじみの現況に夢中で聞き入っていた宗一郎は、はっと父の顔を見た。
「何だい、父ちゃん。改まって……」
 何ごとかと、喜代次も口を閉ざす。ひとくち茶をすすり、儀平は茶碗を卓に置いた。
「ちょうど、お前に手紙を書こうと思っていたところだ。帰ってくるとは知らなかったからな。……実は折り入って頼みがあるんだが」
「だから何だよ」
 父から頼み事をされるなど初めてのことである。おれも社会人だしな……。いくらか得意げな顔で、宗一郎は父のことばを待った。
「弁二郎のことだ」
「弁二郎?」
 宗一郎に見つめられて、父の隣に座っていた弟の弁二郎が身を固くする。その様子をちらりと見て、儀平は淡々とした調子で続けた。
「こいつ、自動車屋になりたいと言い出してなあ」
「ええっ」
 驚いたのは宗一郎だけで、事情を知っていたらしい母も祖父母も黙ってうつむいている。
「そこでだ、アート商会の社長に一筆書いてもらえないかと思ってな」
「で、でも父ちゃん、いいのかい、家のことは。……あ。あの、つまり、自分のことを棚に上げといてあれなんだけど……」
 おたつく宗一郎に、儀平は、ふっと笑って静かに応えた。
「運が悪いとあきらめるさ。親不孝息子を二人も持ってな。……でも、お前はこの土地に自動車屋を開くわけだろう。自転車が自動車に昇格したと思えば、親としては嬉しいかぎりさ」
「……あのね、父ちゃん、おれ絶対に成功して、父ちゃんの自慢の種になるからさ」
「ははは、当てにしねえで待ってるよ。ま、親子三人で自動車屋も悪くないか。といっても、オレには何もできないけどな」
「そんなことないよ、父ちゃんは……」
「まあ、いいってことさ」
 冗談に紛らわして言う父の寂しさが、宗一郎の胸にさざ波のように伝わった。弁二郎のことを儀平は考えに考えていたに違いない。早く口にすれば、その分さっさとあきらめがつく、そんな思いもあって、帰ったばかりの宗一郎に告げたのだろう。背も伸び、ぐっと大人びた弁二郎の横顔と、少ししわの増えた父母の顔を宗一郎はかわるがわる見つめた。家を出て修理工の道を選んだ自分の責任を、宗一郎はさらに重く受け止めていた。
 ともあれ、こうして弟の弁二郎も、独立した宗一郎と入れ替わるように、東京のアート商会で世話になることになったのである。

 それからの数か月を、宗一郎は『アート商会浜松支店』の開店準備に費やした。宗一郎の独立を全力で応援してくれたのは、これも父の儀平であった。儀平は宗一郎のために浜松に家を用意し、祝いにと米一俵まで贈ってくれたのである。
 思えば、父も母も学校の成績は気にもとめなかったが、しつけだけは厳しかった。特に口うるさく言われたのが、「嘘をつくな、時間と約束を守れ、人に迷惑をかけるな」という警句である。そのしつけがなかったら、と宗一郎は思う。おれは東京での奉公を続けられなかったかもしれないし、旦那さんの信頼も得てはいなかっただろう。ましてや一人立ちなど、遠い夢で終わっていたはずだ、と。
 両親の警句を短くいえば、人に信用される人間になれ、ということであった。いつからかそれは宗一郎のなかで血肉化し、行動の土台となり、一生をつらぬく信条へと育まれていったのである。口にこそしなかったが、そうした両親に育てられたことに、宗一郎は今になって感謝していた。
 光明村と浜松を行き来し、開店の準備に追われるうちに年は暮れた。そして昭和3(1928)年が明けて間もなく、宗一郎は待望の修理工場を浜松市元浜町に開いたのである。
 時に本田宗一郎、二十一歳。店主と修理工を一人で兼ねた、文字通りの独立であった。


2001年1月11日:本田宗一郎物語(第22回) につづく


参考文献:「本田宗一郎物語」宝友出版社、その他


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