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2001年1月12日:本田宗一郎物語(第23回)

  本田宗一郎物語(第23回)

 東京仕込みの技術と、丹念で手抜きのない仕事、そして客本位の良心的な経営。三拍子そろった宗一郎の工場は着実に実績を伸ばし、ほどなく、浜松周辺には太刀打ちできる相手さえいない実力と評価を身につけるに至った。
 昭和4(1929)年、ニューヨーク・ウォール街の株価大暴落に端を発し、翌年には日本を直撃した世界恐慌の黒い波も、宗一郎には無縁であった。失業者が国内で23万人、浜松だけでも千人を超えたこの年、アート商会浜松支店は従業員を次々に増やすほどの好況を呈したのである。周囲の不景気をよそに、まさに順風満帆であった。しかし宗一郎の胸には、小さいしこりが残ったままになっていた。現状に満足せず、次々に新しい課題を見つけてはそれを解決してゆくのが宗一郎の流儀だったが、ある課題の前で足踏みが続いていたためである。二年も前に着手した、ダイナモのコイル巻き換えがそれであった。
 あらためて挑戦したくとも、皮肉なことに仕事の忙しさがそれを許してくれない。ようやく作業の時間を見つけたある日、ダイナモ相手に苦闘している宗一郎に、近くを通りかかった修理工たちがいかにも不思議そうに問いかけた。
「大将……どうしてそんな面倒なことをするんです?」
「そうですよ。コイルがいかれたら、そっくり取り替えればいいじゃないですか」
「わざわざこんなことやってる工場はどこにもありませんよ。なあ?」
 宗一郎の逆鱗に、ばりばりと爪を立てるような発言だった。彼らに向き直るなり、宗一郎はありったけの大音声を張り上げていた。
「ばかやろおおおおっ! どこでもやってないからウチがやるんだろうが! よそと同じことをやってたんじゃ、このアート商会の名がすたるってもんじゃねえかああっ!」
 あまりの剣幕に肝をつぶし、すくみ上がった修理工たちはものも言えない。力なくうつむく彼らに向かって、宗一郎は畳みかけた。
「それにな、ダイナモを丸々取り替えたんじゃ、お客さんのふところが痛むだろうが。お前達、いったい誰のために仕事をしているんだ。自動車会社を儲けさせるためか?自分のためか?」
 他の作業員たちも、手をとめ、息をひそめて成り行きを見守っている。ぎろり、と全員を見回した宗一郎は、拳を強く握って続けた。
「いいか、おれたちはな、車を運転するお客さんのために仕事しているんだ。そのことがわからないやつは、今すぐここから出て行け!」
 動こうとする者は誰ひとりいない。宗一郎の腕ばかりでなく、この気っぷに惚れた者ばかりが集まっていたのだから、それも当然といえば当然であった。
「大将……すみませんでした」
 宗一郎に最初に声をかけた修理工が、帽子をとって深々と頭を下げた。
「いいから仕事に戻れ」
 次の瞬間には、宗一郎は彼らに背を向け、ダイナモに全神経を集中させていた。

 いったん火がついたら、納得するまで燃え続けるのが宗一郎である。そうした自分の気質を知っているからこそ、忙しい間はダイナモには触れずにきたのだったが、そんなことも今は忘れて、宗一郎は爆走した。仕事に忙殺される昼間が無理と見てとると、眠りを削り、早朝から作業を始めた。工夫また工夫、試みに次ぐ試みの時間が、宗一郎には純粋な喜びであった。そしてある朝、宗一郎はついに答をその手につかんだ。
「おお、正公、早いじゃないか」
 ダイナモを車に取り付ける気配を聞きつけたか、作業場に顔を出した住み込みの若い従業員に、宗一郎は興奮に上ずる声をかけた。
「ちょうどいい、スターターを回してくれ」
「はいッ」
 今度こそという確信はあった。が、エンジンがかかり、電圧計の針がゆっくりと上がりはじめるのを見たとき、宗一郎は睡眠不足に赤くなった目をぎらぎらと目を輝かせ、われ知らず、大声で絶叫していた。
「いいぞいいぞいいぞおっ、チャージしてる、チャージしてるぞ! よしよしよし……やった、やったぞお正公っ!」
「大将ッ、おめでとうございます!」
「ざまあみろ、ははっ、わはははっ、どんなもんだ。ダイナモの巻き換えができるのは、日本でおれの工場だけだぞ!」
 この瞬間に立ち会った、正公、と呼ばれる若い従業員の名は伊藤正。のちの、オートバイ作りにおける宗一郎の強力なライバル、丸正自動車の社長となる人物であった。

他の工場ではできない修理ができる。この評判が、アート商会の名声をさらに高めた。長く不可能とされてきた領域に踏み込み、それを見事にひっくり返してみせた宗一郎の快挙には、同業者も驚きと感嘆を禁じえなかったのである。だが、これでよしとする宗一郎ではなかった。新しい課題を求めて光を強める宗一郎の目に、意外なほどあっさりと、次の獲物が飛び込んできた。獲物は目の前に、しかも4つ一緒になってどんと身構えていた。宗一郎自身がかつて苦しめられた経験をもつ、木製のスポークであった。


2001年1月13日:本田宗一郎物語(第24回) につづく



参考文献:「本田宗一郎物語」宝友出版社、その他


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