Ws Home Page (今日の連載小説) 2001年1月13日:本田宗一郎物語(第24回) 本田宗一郎物語(第24回) 宗一郎の、東京での修業時代のことである。関東大震災で焼け出され、駅近くのガード下に仮住まいする窮地に追いやられたアート商会は、炎にさらされて放置された自動車を修理しては売り、何とか急場をしのいだことがあった。そのとき最も頭を悩ませたのが、この木製スポークの作製だったのである。人並み外れて器用な宗一郎の腕をもってしても、幾度投げだそうとしたかわからないほどの難事だった。そのときに費やした苦労と手間は、忘れられない体験として宗一郎の体にしみついていた。 「なんとかならねえかなあ……。木製だと湿気で狂いがくるし、平気で燃えちまう。不便でいけねえや。他の材料でもっと簡単にできる方法がありそうなもんだが……」 修理工たちに囲まれて腕を組み、作業場の一角に並べられた木製のスポークを見つめる宗一郎の顔がきりきりと険しさを増す。そのとき、 「旦那さん、ちょっといいかね」 場違いを音声にしてふわりと宙に浮かせたような、おっとりとした声がした。台所と修理工たちの胃袋をあずかる、よねさんと呼ばれる調理番の中年女性である。 「めし炊き釜のことなんだけど、もうこりゃ寿命だよ」 この工場でただ一人、宗一郎を恐れない人物の出現に、修理工たちは顔をちらちらと見合わせ、笑いをかみ殺している。 「ハア、もう底が抜けそうで、鋳物屋に持って行っても直るかどうだか……」 「わかったわかった、新しいのを買ったらいいよ、とびきり丈夫そうなやつをな」 「へェへェ」 よねさんは、うれしそうな笑顔になって台所の方に足を向けた。宗一郎の顔色が一変したのは、その一瞬後のことだった。よねさんっ、と叫ぶなり、宗一郎は彼女に追いつき、その手を捧げ持つように取っていた。 「めし炊き釜だったな? 10でも20でもいい、好きなだけ買って来い!」 宗一郎が、鋳物でスポークを作るという天啓のごときアイディアを得た瞬間であった。 鋳物製スポークの図面描きに没頭した宗一郎は、早くも数日後には完成した設計図を専門の業者に持ち込んでいた。その形状の珍妙さに、鋳物工場の親方は首をひねってつぶやいた。 「やってやれねえことはないが……そもそも一体何だね? これは」 「スポークだ。自動車の輪っぱを支えるつっかい棒みたいなもんだよ」 「それを鋳物でねェ。そりゃまた面白いことを考えたもんだな」 興味を示す親方に、宗一郎は息ききって説明した。 「だろう? これまでは木を使っていたんだが、作るのにえらく手間がかかるもんだから、簡単に取り替えるわけにいかなかった。その点、鋳物なら一度型を作れば量産できるだろうと思ってね」 「なるほど。……オレも長いこと鋳物屋をやってきたが、こんなおかしなものを頼まれるのは初めてだ」 あらためて図面に見入る親方の熱心な目に、宗一郎は確かな手応えを感じていた。 「こいつがうまく当たれば、引き合い間違いなしだ。頼むぜ、親方!」 その読みは、ずばりと当たった。宗一郎の考案による鋳物製のスポークは、昭和6(1931)年3月から開かれた浜松市主催の全国産業博覧会に出品されて大好評を博し、遠くインドまで輸出されるようになったのである。いくら生産しても追いつかない売れ行きに、日本で初めての鋳物スポーク・メーカーとなった工場の親方が、にんまりと笑ったことは言うまでもない。親方は、宗一郎がそれからの人生で数えきれないほど耳にする言葉を、感謝と賛嘆をこめてつぶやいていた。 「いやあ、まったく驚いた。大したもんだよ、あんたは」 アート商会の評判が高まるにつれ、奉公をさせてほしいと訪ねてくる若い者が現れはじめた。そのなかには、のちに宗一郎からアート商会の看板を譲り受ける川島末男の姿もあった。その場で門前払いを食らうと、ほとんどの若者が肩を落として引き返して行ったが、川島は違った。二度、三度と工場に足を運び、そのたびに断られてもあきらめず、ついには父親を引きずるように同道して、宗一郎に直接ぶつかったのである。これには、さすがの宗一郎も根負けした。 「お前も物好きだなあ、こんなオンボロ工場で働きたいだなんて」 「どうしてもここで働きたいってきかないもんで。何とか使ってやってもらえんでしょうか」 緊張に顔を青白く強張らせ、ひとことも発せずにいる川島に、宗一郎は10年前の自分の姿を重ねていたのかもしれない。わかりました、と宗一郎が父親に向かって言うと、川島の顔に初めて赤みがさした。 「そのかわり甘くないぞ。もたもたしてたら遠慮なくぶん殴るからな。お父さんもそれでよろしいですね」 「出来の悪い息子です。殴るなり蹴るなり、存分に鍛えてやってください。お前もいいな!」 宗一郎と父親を交互に見ながら、川島はただ、強く強くうなずいていた。 ● 2001年1月14日:本田宗一郎物語(第25回) につづく 参考文献:「本田宗一郎物語」宝友出版社、その他 Back Home Mail to : Wataru Shoji |