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2001年1月16日:本田宗一郎物語(第27回)

  本田宗一郎物語(第27回)

 古くからの東海道の起点・東京は日本橋までの残り距離を示す標識は、意外と早く二人の視界に飛び込んできた。無理をしたわけではなく、エンジンも好調な音を響かせている。これならいける。確かな手応えをつかんだ宗一郎は、弁二郎にレース会場の下見を持ちかけた。日が暮れるまでには、たっぷり時間が残されていた。

「こいつはまずいな……」
 レースのために、広い面積がのっぺりと広げられた多摩川河川敷に着き、その土質を確かめた宗一郎は、眉間に深いしわを刻んだ。
「どうかしたの? 兄さん」
「思った以上に地盤がやわらかい」
 まずいな、ともう一度つぶやき、宗一郎は唇を噛んだ。
「今のままだと、この車のパワーがかえってアダになっちまう……」
  手のひらを地面に押し当てたまま、弁二郎の顔をぎろりと見上げると、
「今、何時だ?」
 と鋭く訊いた。脱力しかけていた弁二郎は、はっと兄の顔を見た。
「兄さん、何考えているんです」
「決まってるだろう」
 宗一郎は立ち上がり、手のひらについた土を払うと、こともなげに言った。
「エンジンをばらして調整だ」
「待ってくださいよ、兄さん。ろくな工具もないのに、今から分解するなんて無理ですよ。試合は明日ですよ」
「湯島のアート商会の親方に頼んで工場を借りればなんとかなる」
「もし間に合わなかったら、これまでの努力が無になるんですよ」
「馬鹿言え、優勝できなかったら、無になるどころか、屈辱が残るだけだ。間に合うかどうか、やってみりゃわかるさ。やらまいか、だよ、弁二郎」
 言いながら、宗一郎はさっさと車の方に歩き出す。あわてて後から追う弁二郎の頭を、いくつかの場面がよぎった。こうと決めたら、宗一郎は持ち時間のある限り、最大限の努力をつづける。仕事でも遊びでも、それは同じだった。そして、弁二郎が兄を慕い、誰よりも尊敬している理由はまさにそこにあった。
 しょうがないな。弁二郎の顔に、知らず思わず苦笑が浮かんだ。
「ほら、ぼやぼやするな。行くぞ」
 さっさと車に乗り込んだ宗一郎の顔は、さっきまでの憂慮はどこへ消えたか、いきいきと輝いている。かなわないな、と弁二郎はあらためて思い、兄の隣に座を占めた。
 並の人間なら、こういった場面では当然の権利を押しつけるごとく、腐った表情を保ちつづけるだろう。だが宗一郎の頭はすでに、エンジンを明日に向けてどう調整するか、それだけに集中してフル回転を始めているに違いない。そうなると、他のことを考える余地などどこにもなくなるのだ。
「かなわないな」
 弁二郎は今度は口に出して言った。その声は、急発進する車の音に消されて、宗一郎の耳には届かなかった。

 「はははッ、参ったな、腹の大きい女房をほっぽりだして自動車レースか。お前の車道楽も相当なもんだなァ」
 再会を懐かしむ間も惜しんで部品交換の話を始める宗一郎に、榊原は開けっぴろげの笑顔を見せて言った。すかさず弁二郎が切り返す。
「旦那さん、人のことは言えないんじゃないですか?」
「そうですよ、本田さんがこんなふうになったのも、誰かさんの責任じゃないかしら」
 榊原の妻の顔も、弁二郎の発した旦那さん、という言葉も懐かしかった。だが今、宗一郎の頭のなかは明日のレース、レース、レース、それだけでいっぱいだった。工場の一角を作業場として提供することを、榊原は快諾してくれた。座布団が暖まらないうちから腰を浮かせていた宗一郎は、礼の言葉もそこそこに修理場へ急いだ。

 作業は、弁二郎が心配した通り、夜を徹してのものとなった。陽が上がってからようやく車を仕上げた宗一郎と弁二郎は、一睡もせぬまま多摩川河畔へと向かった。
 好天であった。寝不足の眼を、初夏の陽ざしがちかちかと叩いた。それすら、宗一郎には快い刺激にすぎない。トップでチェッカーを受ける瞬間を思うと、自然に頬がゆるんだ。それに誘われたように、とびきり大きなあくびが宗一郎の口からもれ出た。
「兄さん、大丈夫ですか?」
 兄の体調を気づかう弁二郎に、宗一郎はとんちんかんな返答をよこした。
「あたりまえだろう。言っておくが、二位や三位だったら表彰台には上がらない、すぐに浜松に引き返すからな」
 レースに出るのは、優勝するためだ。
 楽天家ではあっても、宗一郎に妄想癖はなかった。やれるだけのことはやった、そう納得できた場合に限って、宗一郎は世界一野心的な人間にも、傲慢なほどの自信家にもなれたのである。
 陽を浴びて輝く多摩川の流れが、近づいてきていた。


2001年1月17日:本田宗一郎物語(第28回) につづく



参考文献:「本田宗一郎物語」宝友出版社、その他


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