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2001年1月21日:本田宗一郎物語(第32回)

  本田宗一郎物語(第32回)

 苦闘の毎日が続いた。その間、会社運営の片腕として、時には研究のアシスタントとして宗一郎を励まし、支えたのは、転業の際に重役たちを粘り強く説得してくれた宮本才吉であった。宗一郎には、その生涯を通じて、苦境に立ったとき、これ以上ないパートナーを得るという天恵がもたらされるが、今回は、それまでの右腕的存在だった弟の弁二郎が戦地へと去った今、その座を宮本が代わってくれた感があった。

 ピストン・リングの試作に着手して九か月が過ぎたある日。その宮本のもとに、宗一郎が顔色を変えて駆け込んで来た。表情は険しい。だが宮本は、ものも言えぬほど興奮している宗一郎の様子から、苦心に次ぐ苦心が報われる日がついに訪れたことを直感した。
「やったな、大将」
「……やったぞ、宮本おっ。何とか納得できるピストン・リングができた。できたよ」
 宗一郎は、銀色に輝く小さなリングを、離してたまるかという風情で、しかし優しく、両の手の指先にしっかりとつかんでいる。たらたらと流れる宗一郎の涙を見て、宮本の胸にも熱いかたまりが押し寄せてきた。
「大将のことだ、やれるだろうとは思っていたが……くそッ、今度ばかりはえらい苦労をしたな」
「あぁ。ああ……でも、やった。やったよ宮本……」
 九か月間の苦しみがもたらした報酬は大きかった。浜松市山下町に建てられた量産用の工場には、どこで聞きつけたか、あちこちの修理工場から、生産が追いつかないほどの注文が殺到したのである。
「いやァー、これはすごい。予想以上だ」
「本田さんの言う通りだった。これまで申し訳なかったよ」
「ピストン・リングっていうのは部品の中でも値がいいっていうじゃないか。これからは車の国産化が進む。有望だな、これは」
「本田さん、これからもよろしく頼みますよ」
 重役たちの態度も一変した。事実、物資の統制が強くなってゆくにつれ、ピストン・リングの発注は日を追って増加していったのである。製造者としての、宗一郎の最初の勝利であった。このときの経験とそれに至る辛苦が、その後の宗一郎のいわば"背骨"を形成したのである。

 戦時体制が次第に強められていった昭和15(1940)年、宗一郎の周囲には明るい出来事が続いた。次女・充子の誕生。そして弁二郎の復員と結婚である。
「いいか、弁二郎。現場のことはすべてお前に任せる。おれと宮本は製品開発と販路の拡張だ。市販のパーツとして売るだけじゃ市場が限られている。これからは自動車メーカーにどんどん売り込むつもりだ。しっかり頼むぜ」
 宗一郎が最初に売り込みをかけたのは、豊田自動繊維の子会社であるトヨタ自動車工業である。意気揚々、宗一郎は宮本を送り込んだ。ところが宮本は、ショッキングな結果を宗一郎のもとに持ち帰って来たのである。
「な、何だと……! 合格したのはたったの三本だというのか!?」
「オレも自分の耳を疑ったよ。出来のよさそうなのを選んで五十本も持って行ったんだが……。思ったより、はるかに基準が厳しいようだ」
 宗一郎の衝撃は大きかった。トヨタにとって、おれの作るピストン・リングはその程度のものなのか……。宗一郎生来の負けん気が、むくむくと頭をもたげてきた。
「よし、わかった。宮本、しばらく会社を頼むぞ」
「え……?」
「勉強のし直しだよ。新しい鋳物の知識が得られそうな大学や工場へ行って来る。知恵はいくらつけても重くはないからな」
 大将、とつぶやいたきり、宮本は何も言えずにいた。その顔には諦めたような苦笑が浮かんでいる。

 宗一郎は、当時、金属学のメッカといわれた東北帝国大学、砲身製造技術に優れていた室蘭製鋼所などを次々に訪ね歩き、知識を深めていった。そして身に帯びた成果を、自社の製品に続々と反映させていった。この結果、宗一郎はピストン・リングに関するだけで、実に二十八件もの特許を獲得するに至ったのである。
 だが、揺れ動く時局は、宗一郎をひとつ所に留めておいてはくれなかった。昭和16(1941)年未明、日本軍はハワイの真珠湾を爆撃。ついに、この時代と全世界を暗く重く覆う、太平洋戦争が始まるのである。


2001年1月22日:本田宗一郎物語(第33回) につづく



参考文献:「本田宗一郎物語」宝友出版社、その他


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