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2001年1月26日:本田宗一郎物語(第37回)

  本田宗一郎物語(第37回)

「山を売って金をつくれ」
 父の儀平は、宗一郎の話にひと通り耳を傾けると、あっさりとそう言った。
「ただし、くれてやるのではない。本田技術研究所の将来に投資するんだと思え」
 面目ないです、と頭をかく宗一郎に、儀平はにやりと笑って言った。
「お前は技術屋としては優秀かもしれんが、どうも商売人向きではないな」
 父親の直感というべきか、それは宗一郎のまさに本質を言い当てた言葉であった。

 昭和22(1947)年11月、宗一郎は独自に開発したA型自転車補助エンジン(50cc・2サイクル・1/2馬力)の本格生産に乗り出した。最初は月産二百〜三百台程度だったエンジンが、やがて全国の自転車屋やブローカーがリュックを背負って買いに来るようになると、文字通り飛ぶように売れた。それに呼応するように、翌昭和23(1948)年2月、宗一郎は浜松市野口町に約130uのエンジン組み立て工場を建設。月産千台を超えるエンジンが、ここから全国に旅立って行った。

 そして同年9月、宗一郎は『本田技研工業株式会社』の新看板を掲げた。資本金は百万円。現在に至る社名が、ここに産声をあげたのである。
 それを祝うかのように、同年、次男の勝久が誕生。宗一郎は二男二女の父親となった。年齢は四十歳。守りに入ることを意識しても不思議はない立場であり、環境である。だが宗一郎はそれらを歯牙にもかけず、新たな挑戦に乗り出した。その端緒は、A型エンジンの改良にあった。
 独特の作動音から"バタバタ"と呼ばれて親しまれたA型エンジンは好調に売れ続け、台湾にも輸出されるほどの人気を示していた。手軽であるということが、最初は持てはやされたが、慣れてくれば、「もっと力が欲しい」、「坂道で、重い荷物でも、アップアップしないエンジンが欲しい」という声も聞こえてくるようになた。
「倍だ。倍の1馬力までパワーを上げるぞ」
 宗一郎のかけ声で、試作と試乗が続いた。テストライダーは、この頃には中心的なメンバーとなっていた河島喜好である。
「どんな調子だ、河島」
「ええ、坂道ではだいぶ楽になったんですが……」
 出力を上げたことで、新たな問題が生じていた。エンジンのパワーに車体がついて行けず、走行が不安定になるのだ。
「よし、フレームを厚く頑丈にしてみよう。タイヤも太くする」
 必然的に、ボディは重くなった。と、エンジンのパワー不足が気になる。パワーを上げると、前を上回る丈夫さがボディに求められる。改良された車体はさらに重い。パワーがほしくなる。出口のない、完全な堂々巡りであった。
「限界だな……、自転車に頼っていることが問題なんだ」
「大将、自転車に取り付けられる手軽さが売り物なのに、それを・・・」
「ああ、わかているがな、自分が納得できないものを、これ以上作り続けることは・・・」
「じゃ、」
「ああ、車体も作る、つまり、オートバイを作るってことさ」
この言葉が、宗一郎のその後の半生を決めたのである。
 そう言いきってしまうと、目の前の、鉄材のかたまりのような「原動機付き自転車」はいかにも醜悪に見えた。宗一郎は、自分にも言い聞かせるように、弁二郎と河島に向かってきっぱりと宣言した。
「いいか、どうせ作るなら、街を走っていたらみんなが振り返るような、かっこいいオートバイを作るんだ。見ているだけでほれぼれするようなデザインのオートバイをな」
 後年、宗一郎は、仏像の眉から鼻にかけての線の素晴らしさは比類がない、と述べている。初めてのオートバイ製作にあたって、宗一郎はその線をイメージしながらタンクのエッジをデザインしたのだった。

 しかし完成したオートバイを作るというということは、決して平坦ではなかった。当時、車体とエンジンを一社で生産するというのは、軽自動車と二輪業界では初の試みだったことからも、そん困難さは推測できるだろう。
 宗一郎は、ここでも、"誰でも買えて、誰でも乗れる"、つまり"大衆車"ということにこだわった。
「この製品は量産を前提としている。だからフレームはチャンネル・フレームでいくぞ」
 チャンネル・フレームとは、凹型の水路(チャンネル)のような断面を持つ構造のフレームをさす。強度を落とさずに車体の軽量化が可能になる。スピードと操作性、さらに安全性を考慮した上での結論であった。
「いいか、乗る人の身になって考えろ。速さはもちろん必要だが、そのために安全性を犠牲にしたんじゃ何にもならない。誰でも安心して乗れるオートバイを作るんだ」
 宗一郎は自ら先頭に立ち、オートバイ作りに打ち込んだ。解決すべき課題は山積していた。エンジンの出力、排気量、重量、それに見合った剛性とバランスを持つボディの開発、トルクとギヤ比の設定、実際の走行性能とハンドリング特性……。宗一郎はそれらを嬉々としてこなした。無理な努力をしているという苦しみは一片もなかった。おれは今、自分の道をひた走っている。そんな実感と歓喜が、宗一郎の身と心のすみずみを満たしていた。
 本田技研初の本格的オートバイD型の試作車が完成したのは、昭和24(1949)年8月。猛暑のさなか、真っ青な空に白い入道雲が頭をもたげた、夏を絵に描いたような日のことであった。


2001年1月27日:本田宗一郎物語(第38回) につづく


参考文献:「本田宗一郎物語」宝友出版社、その他

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