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2001年2月3日:本田宗一郎物語(第45回)

  本田宗一郎物語(第45回)

 箱根は荒れていた。黒い雲が低く立ちこめ、ときおり雷鳴がとどろく。白い防風衣に身を固め、ドリーム号E型の試作車にまたがった河島は、ゴーグルを確かめ直すと、体重をかけてキック・ペダルを踏み込んだ。低く、腹を揺るがすようなエンジン音が響く。
「いいか、峠に差しかかったら、絶対に止めるな、一気に登りきるんだぞ」
 ドリーム号に隣り合った車の運転席から、宗一郎が声を張った。
「はいッ」
 エンジン音に負けまいと、河島も大きな声で応じる。E型を試走させる場所に、宗一郎は険しさで知られる箱根越えの道をわざわざ選んでいた。
「よし、出発だ」
「それじゃ、お先に!」
 宗一郎の合図を待ちかね、弓から放たれた矢のように、河島は鋭く飛び出して行った。
「えらく張り切ってるな、あいつ」
 たちまち小さくなる河島の背に追いつこうと、車のギヤを上げながら宗一郎はつぶやいた。助手席にどっかりと座を占めた藤沢が、苦笑混じりに応じる。
「自分が手がけた最初の製品だ。無理ないよ」
 暗い雲が割れ、稲光が空を引き裂くように閃いた。ぶ厚い雷鳴が空気を震わせて続く。それを合図にしたように、烈しい雨が天と地の間に満ちた。雨脚は強く、ワイパーのあとをすぐに埋め尽くすほどの勢いである。ふと不安を感じた藤沢は、宗一郎の横顔に向かって問いかけた。
「テストコースが箱根っていうのは、ちょっときつすぎやしないか? それもノンストップで登れ、なんて……」
 箱根の峠を登るのは、当時の国産自動車でも難儀であり、オーバーヒートを避けるために何度か止め、エンジンを冷やすのが当時の常識であった。空冷のオートバイ用のエンジンでは、焼き付けを起こしてしまい、たちまち破損ということになってしまう。
「大丈夫さ」
 宗一郎は確信にあふれる口調で応えた。
「あのエンジンなら、絶対にな」
 箱根越えの道は曲がりくねり、とんでもない急坂が次々に現れては後方へと消える。宗一郎の操るビュイックのエンジンでさえ、苦しげなあえぎ声をもらしはじめた。
 雷はやまず、視界をさえぎる雨も衰えを見せない。坂を越えても越えても、河島の白い背中は、暗さを増した風景のどこにも現れてこなかった。車内の息苦しい沈黙のなかに投げ込むように、藤沢がぽつりと声を発した。
「どうしたのかな、河島は」
「……うむ」
「まさか、崖にでも落ちたんじゃないだろうな」
 舗装路ではなく、ガードレールもまだ設置されていない。天候を考え合わせると、その可能性は打ち消せなかった。宗一郎は肩で息をつくと、前方に意識を集中し、さらに強くアクセルを踏み込んだ。傍らでは、不安を募らせる藤沢が、崖下に向かってけんめいな視線を送っている。悪路と悪天候の間で、試運転の伴走どころか、捜索隊にでもなったような重い切迫感が二人を包みはじめていた。
「この辺りにも見えないなあ……」
 崖の暗い口を雨のカーテンを透かしてのぞき込み、藤沢がつぶやく。宗一郎はやや気色ばんで声を返した。
「おい、河島が落ちたって決めつけるような言い方をするなよ」
「おれだってそうは思いたくないよ。でもこれだけ必死で飛ばして追いつかないっていうのは、おかしいじゃないか」
 雨の奥に、箱根峠の頂点が見えてきた。かわるがわるハンドルから離した手のひらの汗を、作業着の太腿あたりで乱暴に拭うと、さすがの宗一郎も声に焦りをにじませ、低くうなるように言った。
「おかしい。こんなに引き離されるはずがない。どこかで追い越してしまった、てことは・・・・。河島、無事でいてくれよ」
 道は下りに差しかかろうとしていた。いちめん雨に煙った風景から現実感が失われてゆく。悪い夢のなかにいるような気分が、宗一郎を侵しはじめていた。そのとき、藤沢が悲鳴混じりに叫んだ。
「あれを見ろ、社長!」

2001年2月4日:本田宗一郎物語(第46回) につづく


参考文献:「本田宗一郎物語」宝友出版社、その他


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