Ws Home Page (今日の連載小説)


2001年2月4日:本田宗一郎物語(第46回)

  本田宗一郎物語(第46回)

 藤沢が指さした先は、見渡す限り平坦な草の広がりである。目を凝らすと、豆粒よりも小さい人影があった。すぐ近くに、黒くうずくまるような形で、見覚えのあるシルエットが見えた。ドリーム号だ。
「あの野郎……」
 宗一郎はアクセルを思いきり踏んだ。濡れた路面にタイヤをとられ、ビュイックが尻を振って加速する。河島とドリーム号は見る間に近づいてきた。びしょ濡れになった河島は、雨に打たれるのを楽しんでいるように、腰に手を当て、のんびりと山々を眺めている。
「かわしまあああーっ!」
 強い雨音の中届くはずのない宗一郎の声に、河島は振り向いた。過酷な条件のなか、厳しく急峻な道を走りきってきた疲れも緊張も、その表情からはうかがえない。太い銀色の針のような雨が、車から飛び降りた宗一郎と藤沢の全身を叩き、みるみる濡れ色に染め上げてゆく。この雨のなかをこいつはオートバイで……。安堵を通り越し、もはや罵倒しているとしか聞こえない声で、宗一郎は河島を怒鳴りつけた。
「のんきそうな顔してるんじゃない! この野郎、心配させやがって……」
 宗一郎に小突かれ、肩をすくめるようにして笑うと、河島は引きしめた顔をドリーム号に向けて言った。
「このエンジン、想像以上です。平均70キロは出ていたと思いますが、びくともしませんでした」
 ノンストップではいけるとは思ってはいたが、時速70キロで走り続けられるとは、予想を上回る劇的な成果であった。
「そうか、そうか……」
 宗一郎は、しゃがみこんでエンジンを愛おしそうに見つめていた。
 藤沢が声を絞った。
「社長、おめでとう。……河島君、ご苦労さんでした」
 立ち上がった宗一郎に、藤沢と河島が歩み寄り、三人はがっちりと手を取り合った。ひとりスーツ姿の藤沢の、ぐっしょりと濡れたネクタイから、雨滴がぽたぽたと垂れている。男たちの泣き出したいほどの感動を、三人に代わって引き受けているような眺めであった。

 OHVエンジンが一般に広く採用されるには、これから十年ほどの歳月を要した。受け入れられなかったのではなく、あまりに進歩的な技術であったため、他社は二の足、三の足を踏んでいたのである。トヨタも日産も、昭和40年頃まで、サイドバルブへの執着を放棄することはできずにいた。E型エンジンは、本田技研に"最先端"という言葉を最初に冠することになる、記念碑的な製品でもあった。

 ドリーム号E型の箱根試走と予想を上回る成功は、宗一郎に揺るぎない自信と大きな勇気をもたらした。宗一郎の目に、本格的な東京進出の青図がくっきりと見えてきた。こうなると、一刻もじっとしていられないのが宗一郎である。浜松に戻った宗一郎は、藤沢に相談する間も惜しんで、本田技研の取引銀行を訪れた。資金調達を申し入れるためである。
 素晴らしい製品はできた。販路は藤沢が開拓してくれている。やる気と期待に胸をふくらませた宗一郎を待っていたのはしかし、審査部長の冷やかすような視線であった。
「なんですってぇ、東京進出?」
 宗一郎は臆さず、ひるむこともなかった。むしろ勢いを得て、テーブルに身を乗り出し、相手を説得しようとした。
「そうです。今度うちで開発したドリーム号E型なら、トーハツに十分太刀打ちできると思います」
 トーハツとは東京発動機。二輪の分野では先発の大メーカーである。審査部長は、はっきりとわかる薄笑いを浮かべて言った。
「いや本田さんねぇ、その新製品がどんなに立派なものかは知りませんが、無茶というか、少々冒険的すぎやしませんか? 天下のトーハツに戦いを挑むなんてあなた、会社をつぶすようなものですよ」
 ねっとりとした口調に苛立ちながらも、宗一郎は懸命に自制してなおも言い募る。
「しかし、このドリーム号は日本で初めてのオーバーヘッド・バルブ方式を採用しているんです。それによって」
 まあまあまあ、と、審査部長は片手を上げて宗一郎のことばをさえぎった。
「とにかくあれです、今ある施設をもっと効率よく利用して新製品を生産して、その上で売れ行きを確認するとか、もっと堅実な考え方はできないものですかねぇ」
 燃え上がっていた闘志の炎が、宗一郎の怒りに引火した。奥歯を噛みしめて黙り込んだ宗一郎を、自分の論理が打ち負かしたと見たのか、審査部長は得意げな表情になって続けた。
「大体ね、今までのあなたのやり方を見ていると、どうも危なっかしくていけない。もっと地に足のついた経営をね、これからは心がけるべきですよ。つまりね」
 どん、という音に、審査部長は身をすくませた。宗一郎の両の拳が、思いきりテーブルを叩きつけた音であった。怒りにめらめらと火の粉をあげる宗一郎の大音声が炸裂した。
「き、貴様なんかにわかってたまるかあっ!」
 ひぃ、と審査部長が椅子の上で小さくなる。がっと立ち上がった宗一郎は、指先を相手の眉間に向けて突きつけ、全身をぶるぶると震わせて言い放った。
「会社をつぶすだと? 危なっかしいだと? たかが金貸しの分際でふざけたことを言いやがって。もうお前の所になど頼まん。ああ、誰が頼むか!」
 怒りに駆られて銀行を飛び出した宗一郎は、車に乗ると、進路をまっすぐ東京に向けた。
 やっちまった、一番やってはいけないことをおれはやっちまった……。すまない、藤沢……。やがて左手にくっきりと姿を現した富士山の威容も、宗一郎の目には入ってこなかった。


2001年2月5日:本田宗一郎物語(第47回) につづく


参考文献:「本田宗一郎物語」宝友出版社、その他


Back
Home



Mail to : Wataru Shoji