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2001年2月5日:本田宗一郎物語(第47回)

  本田宗一郎物語(第47回)

「ははははは……」
 東京営業所で、しょげ返る宗一郎を救ったのは、藤沢の豪快な笑い声だった。
「急に現れてどうしたんだと思ったら、なんだ、そんなことか」
 こともなげに言う藤沢を見て、宗一郎は逆に心配をつのらせた。
「そんなことって、もうあの銀行はうちには融資してくれないよ。そうなったら新しい工場は買えないし……」
「資金のことはおれがどうにでもするって約束したじゃないか」
「……」
「社長が心配することじゃない」
「そうか……」
 藤沢は、本田技研に身を投じた直後から大手のM銀行と取引を始めていた。将来はそこを主力銀行とする計画だった。宗一郎が技術面でエキスパートなら、藤沢は経営面でエキスパートであった。当時としては大胆な、会社と銀行の結びつきを強めるために金を借りる。藤沢の頭には、そこまで周到な計算がすでに組み上げられていたのだ。
 そのためには。藤沢は、以前から考えていた計画を宗一郎に持ちかけることにした。
「それより、社長に頼みがあるんだ。E型以外にもうひとつ、売れ筋の商品を開発してくれないか」
 しょんぼりとしていた先刻までとは打って変わって、眼の光にみなぎるような力が戻ってきた。
「俺にできることなら・・・・・。新製品か?」
「これはおれの思いつきなんだが……」
「話してくれ」
「社長が戦後つくっていた自転車用の補助エンジンをもっと小さく軽くしたらどうだろう」
 藤沢が、単なる思いつきを口にする男でないことを宗一郎は熟知していた。提案というより、作れば売れることを確信した上での依頼に違いない。
「よっし、わかった」

 藤沢の目論見は、新規販売網の組み上げにあった。ドリーム号を販売する代理店とは別の流通経路とネットワークを組織し、オートバイ需要の底辺を掘り起こそうとしていたのである。それには、扱いやすいエンジン単体が最適だ。藤沢はそうにらんでいた。ただし、戦後に作っていたいわゆる"バタバタ"は重量が14キロもあり、馬力も小さかった。しかし、今の技術力をもってすれば、軽量コンパクトに改良すのはわけないことだし、それを売れば勝てる、と。
 藤沢は同時に、旧来の受注生産から見込み生産への切り替えを念頭に置いてもいた。それまで受け身一方だった生産企業の体質を能動へと改善すること、さらに見込み生産によるマス・プロダクト体制への道を、このとき早くも藤沢は模索していたのである。

 浜松に戻った宗一郎は、すぐに新型自転車用補助エンジンの開発に着手した。
 藤沢は改良して軽くして欲しいと言っていたが、ほどほどの軽量化では意味がない。馬力の向上も同じだ。デザインもスマートなものにしよう。宗一郎は、新製品を一から開発する覚悟でいた。昼も夜もなく、宗一郎は図面描きに打ち込んだ。
 チャルメラの音が耳に障り、かといって商売をやめさせるわけにも行かず、夜鳴きそばを屋台ごと買い占めるという著名なエピソードが生まれたのもこの時期である。

 昭和27(1952)年3月、自転車用補助エンジン、カブ号F型(50cc)が完成。重量は"バタバタ"の半分のわずか7キロ。出力は倍以上の1.2馬力。白いタンクに赤いエンジンというしゃれたデザインも人気を呼び、カブ号F型は空前の売れ行きを記録する。
 その裏には、藤沢の地道な努力もあった。カブ号の試作品を見てヒットを確信した藤沢は、全国五万五千軒の自転車販売店に手紙を出し、三万通もの返信を得ていた。このなかから、約一万三千軒の販売先を本田技研は確保。奇跡的な躍進の基礎が、ここにがっちりと築かれたのである。


2001年2月6日:本田宗一郎物語(第48回) につづく



参考文献:「本田宗一郎物語」宝友出版社、その他


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