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2001年2月7日:本田宗一郎物語(第49回)

  本田宗一郎物語(第49回)

「ドリーム号とカブ号の販売網はできた。これからもどんどん新製品を開発してくれ」
 東京本社に近い小料理屋で、宗一郎と藤沢は久しぶりに酒を酌んでいた。藤沢が営業に参画した当初は、毎日のように午前三時、四時まで語り合って飽きない二人だったが、どちらも多忙になりすぎていた。また、進むべき道が定まってからは、話をする必要がないということでもあった。技術と営業という専門分野の違いはあっても、一つの確信を共有していたからである。
「製品が出るたびに、別々の販売網をつくっていこうと思っている。このやり方なら、お客さんとのパイプの数も売り上げも増えるはずだ」
 藤沢の案出した機種別販売網は、当時としてはおそろしく急進的なアイディアだった。それも大きな実を結びつつある。上機嫌で料理を平らげる藤沢から酒をすすめられた宗一郎は、いくぶん口ごもりながら言った。
「新製品の構想はいくつかあるし、実験済みのものもある。でも、それを量産ベースに乗せるには、ちょっと問題があるんだ」
「というと?」
「工作機械だ。精度の出るやつでないと」
「社長、必要な機械はどんどん入れようよ。資金には余裕があるんだ。その代わり、買ったらすぐに動かしてほしい」
 宗一郎は、自分から設備や機械をほしいと言い出したことがなかった。既存の機械に不満があれば自ら改良して、使いこなしていたからである。使い方だって創造だ、と宗一郎は考えていたし、都合の悪いことを機械や設備のせいにしたりするのは好きではなかった。藤沢は宗一郎のそうした面を知り尽くし、絶対の信頼を置いていたのである。しかし、新しいものを量産していくとなれば、自分のエネルギーを何にむけるべきか、宗一郎は考えていたのだった、しかし・・・・。
「でも、おれが目を付けているのは外国製の工作機械だ」
「どのくらいあればいいんだ?」
「たぶん……億単位の金がかかっちまう」
「ほほう。億、か」
「・・・・ちょっと言ってみただけさ。資本金六千万の会社に億単位の投資なんて無理なのはわかっているんだ」
「いいじゃないか。やってみようよ」
「ちょっとまてよ、俺はただ・・・」
「なんだよ、おれは本気だよ」
「大丈夫なのか?」
「社長に金の心配はさせない、って約束したじゃないか」
「・・・・・・・」
「・・・・・・・」
「すまない・・・・。何だかうれしくなってさ・・・・」

 藤沢は間を置かず、最新の輸入機械の買い入れと設備投資に動いた。
 アメリカ、ドイツ、スイスへの発注が四億五千万円。これは四輪のトヨタ、日産に肩を並べる数字であった。さらに昭和28(1953)年が明けるとすぐに、白子工場に近い大和市新倉に十万平方メートルの土地を購入、大和工場の建設に着手する。次いでその年の12月には、浜松市葵町でも新工場の建設を開始。翌年までに逐次決済をする設備投資は、十五億円という巨額に膨れ上がったのである。
 常識を度外視した、もはや冒険的という枠さえ超えたこの投資に、世間は文字通り驚倒した。それがニュースとなり、口から口へ伝わってゆく。こうして本田技研の名は、オートバイに無縁の人々にも広く認知される結果となった。

 新製品のデビューも続いた。昭和28年8月には、ベンリイ号J型4サイクルを発売。89ccの排気量を持つこのバイクは、当時90ccをラインに区分されていた免許証に対応した製品であった。
 翌昭和29(1954)年1月には、日本で初めて車体にポリエステル樹脂を使い、二輪初のセルモーターを装備した最高級スクーター、ジュノオK型4サイクル・189ccが誕生。本田技研は他を大きく引き離し、名実ともに日本一のオートバイメーカーとして独走態勢を築いた。
 しかし。
 好事魔多し。
 巨大な陥穽は、その昭和29年に、黒く虚ろな口をぽっかりと開いていたのである。


2001年2月8日:本田宗一郎物語(第50回) につづく


参考文献:「本田宗一郎物語」宝友出版社、その他


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