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2001年2月8日:本田宗一郎物語(第50回)

  本田宗一郎物語(第50回)

 失速は、唐突であった。絶好調のカブ号F型が月産一万台を記録し、月商が四億円に達した昭和28年の末まで、その兆候すら現れてはこなかった。ほころびは、皮肉なことに、そのカブ号から始まる。年が明けるや、競合他社がこの分野に雪崩を打って参入してきたのである。
 自転車用補助エンジン・カブ号F型は、後輪の横に取り付ける仕様となっている。だが市販されている自転車はさまざまで、なかには取り付けが不能な形状のものもあった。そこに目をつけた他メーカーは、自転車のフレームの三角パイプに据え付けるエンジンを作り、本田技研が切り拓いた販売網に流し込んだ。市場には、煮え返るような競合状態がたちどころに現出したのである。
 失速の第二の原因は、期待をかけたジュノオ号K型の、思いもかけない不振であった。このスクーターの開発にあたって、宗一郎は新たな素材の導入とデザインの改革に挑んでいた。ポリエステルレジンをガラス繊維で強化したプラスチック材料を使用し、鉄板では出せなかった新味を加える。その試みは成功していた。丸みを帯びた特徴的なボディと大きい風防を持つジュノオ号は、雨の日にも濡れないスクーターとして、大々的に受け入れられるはずであった。
 誤算は、そのボディにあった。プラスチックのスマートなボディが空冷式のエンジンを囲む構造となっているため、エンジンがオーバーヒートしてしまうことがあったのである。デザイン面から採用した小さいタイヤはボディの重量とバランスがとれず、扱いにくいという悪評も立った。そうなると消費者は冷たい。ジュノオ号の売れ行きはぱったりと止まった。プラスチックが高価な輸入素材であり、採算性が低かったことも後追いをかけた。
 ジュノオ号の登場で意外な利を得たのは、三輪自動車、いわゆるオート三輪のメーカーであった。ジュノオ号をヒントに、それまで雨ざらしだった三輪車の運転台に雨よけの幌を設置、軽四輪に押されはじめていた売り上げを大幅に回復したのである。ホンダ製品の販売店にも、マツダやダイハツ、三菱製のオート三輪を取り扱う店が続出する有様であった。当時、オートバイと三輪車の主な用途は荷物の運搬である。ジュノオは、そのシェアを三輪に分け与える役目まで果たすという、まことに悲劇的な製品ともなったのである。
「社長、幌付きの軽三輪を作ってくれないか」
 たまりかねた藤沢は、一度だけ宗一郎に持ちかけたことがある。代理店からも要望が寄せられていた事情もあった。宗一郎はひとことだけ、ぽつりと返した。三輪はよそうよ、と。
 三輪自動車は決して主流にはならない。もちろん、今は会社の基盤を築いている時期だから贅沢はいえない。しかし、過渡的な商品に手を染めたくない、過渡的な商品は最終的に消費者を裏切ることになる、宗一郎はそう考えていた。藤沢は理解し、以来、三輪という言葉を口にすることは二度となかった。四輪車について二人が話し合うのも、これよりまだまだ先のことである。

 窮地に立ったカブ号。それを追い打つジュノオ号の大誤算。同じ新製品のベンリイ号もまったく振るわない。しかし本田技研を襲った最大の衝撃は、主力商品であるドリーム号の売れ行きが、みるみる下落していった事実であった。
 146ccからスタートしたドリーム号は次第に出力を上げ、排気量は200ccに達していた。それにぴたりと重なるように販売も伸び、人気は天井知らずの勢いであった。ところが、もう一段上のパワーと評判を求めて、排気量を220ccに引き上げたとたん、エンジントラブルが続出したのである。
 宗一郎をはじめとする技術陣が、白子工場に泊まり込みになる日が続いた。議論は百出したが、原因はつかめない。その間も、営業所には苦情ばかりが舞い込んだ。

 藤沢は懊悩した。本田技研は、未曾有の危機を迎えていた。製品が売れなければ手形が落ちない。手形が落ちなければ、会社は倒産である。決済日は6月10日。長い冬が終わり、ちらほらと桜が咲き初める季節になっていた。だが、藤沢の思いは暗く冷たい冬から抜け出せずにいた。
 このままでは社長もおれも終わりだ。
 ぎりぎりまで追いつめられた藤沢は、入社以来初めての行動に出た。


2001年2月9日:本田宗一郎物語(第51回) につづく


参考文献:「本田宗一郎物語」宝友出版社、その他

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