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2001年2月13日:本田宗一郎物語(第55回)

  本田宗一郎物語(第55回)

 現実問題として、当時の本田技研に、海外のレースで勝てる技術力はなかった。資金力の面からいえば、戦う資格すらなかった。したががって、『マン島T・Tレース出場宣言』は、あくまで世界をめざすという将来の夢と目標をホンダ内部に向けて具体的に示した、いわば檄文の一種であった。
 効果は大きかった。技術開発部を中心に、いきいきとした光が従業員たちの瞳に戻ってきたのである。
 また、別の反応もあった。この宣言に新聞を中心とするジャーナリズムが飛びついたのである。内容は、いずれも揶揄する論調のものであり、その意気や良しとする好意的な記事はほとんど見当たらなかった。ドリーム号220ccのトラブルが解決したばかりなのに何と楽天的、あるいは誇大妄想的な会社であることか、という意地の悪い視線が見え隠れした。その裏側には、まだ敗戦を引きずっている日本人のコンプレックスが見てとれた。宗一郎には「大ホラ吹き」、というレッテルが貼られた。

「社長、ヨーロッパに行ってこないか」
 6月に入って間もないある日、藤沢は宗一郎に向かっていきなりそう告げた。
「……こんな時期に……?」
 マン島のT・Tレースが開催されるのは6月である。出場宣言以来、宗一郎が観戦したさにうずうずしているのは誰の目にも明らかであった。しかし宗一郎はそれを決して口にはしなかった。宗一郎を取り巻くジャーナリズムの騒ぎも収まっていない。決済日もせまっている。
 藤沢は、きっぱりと言った。
「今は、社長が日本を離れてくれている方が何かと都合がいいんだ」
「そうか。……そうかもしれないな……、すま……」
「やめてくれよ、社長が只では帰ってこないことも期待してるんだ」
「わかった、むこうの工場も見学してくるか」
「そうして欲しい」

 藤沢の提案から数日後、宗一郎はT・Tレースとヨーロッパの二輪業界視察のため、機上の人となった。

 会社を倒産の瀬戸際まで追い込んだのは、おれの不始末からだ。藤沢には、そうした忸怩たる思いと猛省があった。
 社長にも、自分自身にも、高い技術そのものが、営業力になる、と信じていた部分があった。社長は技術者だからそれでいいとしても、営業担当の自分はそれではいけないのだ、と藤沢は思った。必ずしも先進技術を盛り込んだ商品が売れる、とは限らない。プラスチックを日本で初めてオートバイの素材に用いたジュノオ号の失敗がその例だった。最先端のものを売って金に変えるには、その技術以上に高い営業・販売戦略が必要なのだ、と藤沢は悟った。比較対照となるものがあれば、その良さをアピールできるから売りやすい。しかし、全く新しいものは、かえって敬遠されてしまうことがある。そういったものを売るには、通常の営業努力ではだめなのだ、ということも身にしみてわかった。
 社長や技術者を楽観的過ぎるというのは簡単だ。では、営業や販売は革新的なことをしてきたと言えるだろうか。社長の技術力を上回る革新的な営業戦略を、おれが編み出さなければいけないのだ、と。
 この教訓をこそ、町工場の延長として発展してきたホンダを、近代企業へと脱皮させるために役立ててみせる。藤沢は固く決意していた。
 本田技研が新しい営業、新しい生産体制、新しい在庫管理、新しい生産調整をとりはじめるのは、この時からである。増産そのものが、必ずしも会社の利益にならない、という考えは当時としては革新的だったのである。

 藤沢が東京で奮闘している頃、宗一郎はイギリスにいた。お目当てのマン島である。
 イングランド本土とアイルランドの中間に浮かぶこの小さな島は、6月になると、世界中から集まる数十万人の熱狂的なレース・ファンで埋め尽くされた。だが、そのなかでも、はるばる日本から海を越えて訪れた宗一郎の姿は異色であった。戦後十年近くを経た今なお、反日感情の強い土地柄でもある。どこに行っても、宗一郎は好奇と侮蔑の目にさらされ、レース出場の意志を告げるとあからさまな嘲笑を買った。
 しかし、それもこれも、宗一郎にとってはどうということはなかった。それら一切が意味を失うほどの衝撃に、宗一郎はほどなくして、頭から呑み込まれるのである。


2001年2月14日:本田宗一郎物語(第56回) につづく


参考文献:「本田宗一郎物語」宝友出版社、その他


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