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2001年2月15日:本田宗一郎物語(第57回)

  本田宗一郎物語(第57回)

「ほら、ネジの頭のところをよく見ろよ」
 そう言われて、藤沢はネジを持ち直し、しげしげと見つめた。
「あれ? 確かに刻みが違うな……」
 通常のネジは頭に1本の溝が切られるのが常識だった。いわゆるマイナス・ネジである。ところが、宗一郎が拾ってきたというネジは、頭に十字の溝が刻まれていた。藤沢は眉をひそめ、答を求めるように宗一郎を見た。
「クロス・ネジだよ」
 顔いちめんに笑いを広げて、宗一郎は藤沢に向かって言った。

 現在ネジといえばたいていクロス(プラス)・ネジだが、当時の日本のネジは、すべてマイナス・ネジだったのである。
 たかがネジ一本である。だが、クロス・ネジによってはじめて機械によるネジ留めが可能になるのである。それは作業効率の大幅なアップをもたらす。日本人で、それをはじめて見抜いたのが宗一郎であった。

「あの、専務。ところでさ、そっちはどうだった」
「何のことだい」
「大丈夫だとはわかってるけど、苦労したんじゃないか、と思ってな。決済日のことだ」
「金のことは、俺に任せておけ、と言ってあるじゃないか」
「まあ、そうだけど」
「俺が、技術のことで心配したことがあるか。もし、心配して社長の周りにくっついていたらどうだい」
「わかった、わかった」
「ゆうくりしてから、話そうと思っていたんだが、今言うことにしよう」
「ああ」
「もう大丈夫だ。この会社は絶対につぶれない」
「そうか、すまねえな」

 本田技研は危機を脱した。しかし、いちど宗一郎に目をつけたジャーナリズムは、執拗に黒い爪を立ててきた。
 この大事な時期に社長の宗一郎を外遊させ、専務の立場にある藤沢が経営上のすべての始末をつけるという大役を果たした。これは二人が犬猿の仲である証拠だ、あるいは藤沢が社長の座をねらって動いた可能性もある……。そうした中傷記事を世間に流したのである。
 ふざけるな。藤沢の腹が、ぐらりと煮えた。しかし、時が立つにつれ、「まあ、世間の連中にはわからんだろうな」、と思うようになった。社長の天才をだれでもが感じられるわけではない。そういった才能にほれ込み、生涯を捧げてもいい、と男が思えるというのは、やはりどう考えても頻繁にあることではない。凡人と凡人の付き合いの中からでは、想像することすらできない、人間関係、信頼関係があるのだ。俺は、それを知っている。そのことが俺の幸せなんだ、藤沢はそう思うようになった。人に言ってもわからんことだ、と、以来藤沢は、ジャーナリズムの人間と会うことを避けるようになったのである。

 ヨーロッパ視察から四か月が経過した昭和29年10月。宗一郎は、各工場の設計課の精鋭たちを集めて、研究部を設立した。目的はひとつ。マン島のT・Tレース挑戦を視界に据えた、ホンダ・オリジナル・レーサーの開発である。大きな夢に胸をふくらませる男たちを、宗一郎は工場の一隅に集めて、癖の強そうな顔ぶれをぐるりと見回した。その中心では、今や宗一郎の右腕へと成長した河島が、唇を固く結び、頬を上気させている。後方に固まって立つ若いスタッフのなかには、この年に入社したばかりの柔和な顔立ちの男がいた。やがて本田技研の三代目社長となる、久米是志の若き日の姿であった。
「みんな、よく聞いてくれ」
 初めて相対する陣容に向けて、宗一郎は朗々と声を張った。
「お役所や同業者の連中は、おれのことを身のほど知らずと冷笑しているそうだ。……無理もない。ホンダはまだ、レースの辺境のアジアの、それも無名のメーカーにすぎん。しかし、言いたいやつには言わせておけばいい。いずれT・Tレースに優勝してみせれば、笑ったやつらはグウの音も出なくなるだろう」
 宗一郎の目と声に、いちだんと力がこもった。
「確かに大変な目標だ。世界のレベルは日本よりはるかに高い。だからこそ、おれたちはチャレンジするんだ!」
 男たちはぴんと背を伸ばし、熱を帯びた表情をいっせいに引き締めた。
 何かをやるときは最も困難な道を選ぶ。難しいからこそ、やりがいがある。宗一郎の理念は、このときスタッフ全員のものとなった。寄せ集めにすぎない集団に、一本の背骨が通るのを誰もが感じ取っていた。宗一郎は厳しい口調で続けた。
「いいか。マン島で日の丸を揚げるまでは、夜も昼もないものと覚悟しろ! 覚悟できない奴はここから、今すぐ出て行け」
 もちろん、誰も出ていかなかった。この日こそ、本田技研が、世界のホンダに向けて、狭く急峻な道を歩み始めた瞬間であった。


2001年2月16日:本田宗一郎物語(第58回) につづく



参考文献:「本田宗一郎物語」宝友出版社、その他

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