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2001年2月17日:本田宗一郎物語(第59回)

  本田宗一郎物語(第59回)

 ドリーム号SA型の画期性は、エンジンに集約される。国内メーカーでは初めての自社生産によるOHC(オーバー・ヘッド・カムシャフト)方式のエンジンがそれである。
 エンジンの回転を上げるためには、可動部品を軽くしきちんとバランスをとることである。しかし強度との兼ね合いから限界がくる。次に打つ手は、と宗一郎は考えた。
「そうか、おれは部品の数を減らし、軽くすることばかり考えていた。そうじゃないんだ。部品が増えてもいいんだ。エンジン内部の可動部品の総量が軽くなりゃな」
 OHV、オーバーヘッドバルブは、本田のお家芸ではあったが、その限界に気づいたのも宗一郎だった。バルブをシリンダーの上にもってくることによって、シリンダー内の無駄な容積を取り除き、圧縮率を上げることができた。それがOHVである。しかし、シリンダーヘッドの上にあるバルブを駆動する動力はシリンダーの下からとっていた。シリンダーの下からシリンダーの上へ力を伝達するために決してシンプルとはいえない機構が存在していた。宗一郎はここに目をつけた。シリンダーの上に回転するカムシャフトを置く。それはチェーンかベルトで下から回すことができる。この回転するシャフトでバルブを動かす機構はシンプルになる。カムシャフトという軽くはない部品は増えるものの、往復運動する部品は小型軽量にすることができる。トータルとして効率がいいはずだ、それが結論であった。
 しかし、当時の日本に高速に耐えるチェーンやベルトは存在していなかった。その素材研究から始めなければならなかったのである。
 こうして量産車として初めてのOHCエンジン搭載のドリーム号SA型が生まれたのであった。

「いいか!」
 工場いっぱいに、宗一郎の力にあふれる声が響きわたった。
「今度参加する富士登山レースはドリームSAの性能を試す絶好の機会だ。俺たちが作ったOHCのすごさをみせてやれ!」
「オー!」
 胸を張ってこたえるスタッフ全員の顔が、このオートバイの開発に参加したという誇らかな思いに輝いていた。

 昭和28年に始まった富士登山レースは、その年で第三回目の開催を迎えていた。コースは、富士宮浅間神社前から富士山二合目下までの全長27キロメートルに及ぶ砂利道。標高差約1500メートルにも達し、スピードと耐久性の両面を問う厳しいレースである。オートバイの持つ資質がそのまま結果に結びつくため、その勝敗は売れ行きを左右する。各メーカーにとってきわめて重要なイベントであった。
 ホンダのドリーム号SA型は、このレースで一位、二位を独占し、圧倒的な強さを世に知らしめたのである。
 勢いづいた本田技研は、同じ年の11月、この年初めて開催された全日本オートバイ耐久レース、通称浅間レースに乗り込んだ。クラス別に覇を競う本格的なレースである。これを制すれば、マン島への道は洋々と開けてくるはずだった。だが―。

「なにっ、125ccと250ccで負けただと!?」
 レース結果の報告に現れた河島に、宗一郎は唖然とした顔を向けた。
「は、はい。350と500の混合レースでは一位から四位を独占しましたが、125はヤマハのYA1に、250は丸正自動車のライラックに遅れをとりました」
「肝心のクラスでか……」
 125ccと250ccは、T・Tレースで設定された出場枠である。くやしさと焦燥に、宗一郎はぎりぎりと奥歯を噛みしめた。
「原因は何だ?」
「車重だと思います。浅間のコースのほとんどが瓦礫だらけの未舗装道路で……」
「そうか、ヤマハも丸正も2サイクルだったな……」
「はい」
「俺は、2サイクルの方が小型で部品点数が少なくていいんだ、って言っていたよな」
「おっしゃってました」
「そのとき、市場では、うるさい2サイクルは未来がない、ってな。俺が泣く泣く2サイクルを止めたのを知っているよな」
「はい。でも社長が奮起された結果としてOHVが残りました。今はOHCを手にしました」
「わかってらあ。だがな、そのOHCが2サイクルに負けたわけだからな」
「いえ、エンジン性能では……」
「負けは負けさ」
「では究極の2サイクルを……」
「バキャヤローッ!2サイクルより軽くて、もっと回るエンジンを作ってやらーな」

 この年、設立されたばかりのヤマハ発動機の後塵を拝したことも、宗一郎には許しがたい結末だった。
 車体の設計、材料や工法の検討に加え、宗一郎は燃焼の研究にもいちだんと力を入れた。
「おい、だれか、この排気ガスの成分を、分析してもらってきてくれ」
 この時期、宗一郎は、排気ガスの臭いに注目していた。臭いと馬力に関係がある、と直感したのである。
 分析の結果、エンジン内でガソリンは思いのほか燃えていなく、つまり完全燃焼することがない、ということがわかったのである。
「ガソリンがちゃんと燃えていない、ってことか。ということは、ちゃんと燃やせば、もっと馬力が出るっちゅうことだな」

「おい、誰か、燃焼室の理想的な形を知っているか」
「そりゃ、球形でしょうね。エンジンヘッドでなら、半球でしょうか」
「そうだろうな」
「じゃ、半球型のシリンダーヘッドを設計してみろ」
「あの、半球型のシリンダーに、プラグとバルブを取り付けて、そのバルブをきちんと動かすのは、不可、いえ難しいと」
「わかってらあ、それを解決するのが、俺たちの仕事だろ」
「でも、プラグがオーバーヘッドカムの下にくると、交換できなく・・・」
「あのな、そんなことはな、言われなくたって・・・」
「わかりました、設計してみます」

 このようにして、色々の形状のシリンダーヘッドが設計さら、排気ガスの成分の分析が行われた。これが燃焼工学の始まりだったのである。

 これにさかのぼる9月、本田技研は、二輪車生産台数国内第一位となっていた。しかし宗一郎にとって、その数字は何の意味も持たなかった。世界はまだ遠い。日本の全メーカーをすべて合わせたとしても、その生産台は、世界第五位にしかならない。今想像するのは難しいことだが、当時の日本はまだオートバイ後進国だったのである。


2001年2月18日:本田宗一郎物語(第60回) につづく


参考文献:「本田宗一郎物語」宝友出版社、その他

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