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2001年2月18日:本田宗一郎物語(第60回)

  本田宗一郎物語(第60回)

 昭和30年11月の浅間レースでの敗北は、宗一郎と本田技研の前に険しい荊(いばら)の道を用意する結果となった。険しいばかりでなく、踏み越えるのに数年を要する、長い長い道である。
 その顛末とはやや距離を置いて、この回では翌昭和31(1956)年のふたつのエピソードについてふれておきたい。読者ならびにホンダ・ファンには興味深いエピソードと思われるからである。

 技術陣の奮闘にも関わらず、新しい年が明けてからも、エンジンの開発は牛歩のごとき進展しか見せずにいた。もともと一気に距離をつめることのできる仕事ではない。気分を新たにするのもいいかもしれない、そう思った宗一郎は、ある日、河島に向かってこう言った。
「おれ、しばらく工場を離れるからな」
「え、どうかしたんですか、おやじさん」
「どうもしやしないよ。専務とヨーロッパに行ってくる」
 藤沢は、事務管理の仕組みと給与体系を調べるため、以前からドイツ行きを計画していた。その旅に、宗一郎も誘われていたのである。
「ちょっとあっちの工場を眺めてくる。レースの本場の空気も吸ってくるよ」
「おみやげ期待してます」
「バッカヤローッ!向こうの技術を盗むつもりなんかあるものか」
「チョコレートとかですよ、おやじさん」
「そうか、そうか、そういった土産ならな」
「やだな、おやじさん、むこうさんの技術のことになるとムキになるんだから」
「チョコレートだな、ははは」
 旅の目的地には、宗一郎の強い希望でイタリアも追加された。藤沢にとっては得たりであった。宗一郎を誘ったのには、別の理由もあったのである。
 当時のヨーロッパ線は南回りだけで、しかも各都市に降り立ちながら飛ぶ"各駅停車"だった。約七十二時間がかりの長旅である。飛行機が日本を離れるや、藤沢は宗一郎にこう持ちかけた。
「社長、原付自転車を作ってくれないか」
「あれには、こりた。自転車を利用してたんじゃ、結局いいものは作れないかならな」
「だから、原付のスクーターのようなやつを作ってほしいんだ」
「スクーターもこりた。あんな革新的だったジュノオも大失敗だったじゃないか」
「だから、ジュノオより軽くてスマートで、50ccのやつを」
「50ccでか、ちょっと無理だな」
「社長らしくないな」
「ちょっと待ってくれ、おれ寝るぞ」
 藤沢は粘った。宗一郎が機内で眠り、目覚めるたびに、耳元でささやいたのである。ついには宗一郎がうるさがっても、藤沢は呪文のように50cc、50ccと唱えつづけた。

 ドイツに着くと、宗一郎と藤沢は精力的に工場を見て回った。フォルクスワーゲンやポルシェ、メルセデスといったメーカーである。宗一郎の行きたがったオートバイ工場には、ドイツのクライドラーやイタリアのランブレッタなどが含まれた。藤沢の策はここで功を奏した。小さいバイクがあると、宗一郎はそれを気にして、
「こういうのが欲しいのか?」
 と、いちいち藤沢に訊ねはじめたのである。
「こんなんじゃダメだ」
「これか?」
「違うなあ」
「じゃあ、こんなのか?」
「これじゃない」
「お前な、自分が欲しいもんがわかってないんじゃないか。それで、俺に作れっていうのか?」
「ないから作ってくれと言ってるんだよ。俺は本田の作が欲しいんじゃないか。社長だって、俺が、これと同じものが欲しい、って言ったら怒るだろう」
「はは、まあ、そうだな」
 こうした問答を通して、宗一郎は藤沢の欲しがっているもののイメージを少しずつ理解していった。お気づきの方も多いかと思うが、これが、数年後にデビューする製品、今なお売れ続けている世界のベストセラー、スーパーカブとして結実するのである。

 昭和31年は、第一次南極観測隊を乗せた『宗谷丸』が日本を離れた年でもあった。これは国際地球観測年の一環事業としておこなわれた世界的な共同観測であり、国際社会への復帰という日本の悲願がかかっていた。戦後日本の技術力が世界に問われる時でもあった。
 千を超える企業が、持てる技術力のすべてを携えて協力した。しかし準備は難航した。なかでも問題となったのが発電である。氷点下50℃に達する環境に備えるべく、実験地には網走が選ばれた。気温は−20℃。南極に比べれば温暖とさえいえる条件下で、観測隊の用意した発電機はたちまちオイルが凍結したのである。電力がなければ極寒地での作業は絶望的である。といって、出発までに改良を加える時間はない。観測に関係する誰もが絶望に打ちのめされたそのとき、ある新興の企業が助力に名乗りをあげた。
「うちの社長が、居ても立ってもいられないと言っています」
 発想の転換というべきか、その企業が提供したのは、本格的な風力発電のシステムであった。企業の名は、あらためて述べるまでもなく本田技研である。
 同じ頃、自社製のコンパクトな通信機器の提供を願い出た、これも新興の企業があった。会社の名は東京通信工業。現在のソニーである。
 未知の南極大陸をめざす船の貨物室で、ホンダとソニーの心意気は、まだ目覚めてはいない。


2001年2月19日:本田宗一郎物語(第61回) につづく


参考文献:「本田宗一郎物語」宝友出版社、その他

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