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2001年2月19日:本田宗一郎物語(第61回)

  本田宗一郎物語(第61回)

 浅間レースの第二回が開催されたのは、昭和32(1957)年10月。必死の研究の甲斐なく、ホンダはまたも125ccと250ccの両クラスで敗れ去った。
 技術スタッフが落胆する中、宗一郎だけが平然と結果を受け止めていた。国内レースは、実験でしかない。まだまだ本番までにしておかなければいけないことが山積みになっていることを知っていたからに他ならない。
 浅間レースの直後、宗一郎に、ある新聞社のベテラン記者から取材の申し入れがあった。受けても、受けなくても、どんな記事になるかは予想できた。どうせほら吹きさ呼ばわりされるなら、と宗一郎は考えた。思いっきりでっかい話をしてやろうじゃないか。
 応接間に通された記者は、思った通り、皮肉な口調で切り出した。
「本田さん、マン島のT・Tレース出場を宣言してから、もう三年になりますね」
 宗一郎は厳しい顔で、記者の眼をじっと見つめた。しかし、それでひるむほど新聞記者はヤワではない。粘り気を帯びた声で、記者は続けた。
「それなのに、国内レースまた敗れましたね。一番大事な125ccと250ccで。大丈夫なんですかね?」
「ああ、負けちゃったな」
「?・・・・そんなこと言っていいんですか?」
「負けたんだから、しょうがないだろう」
「じゃあ、マン島の話は取りやめですか?」
「バカ言っちゃいかんよ。じゃあ、君に聞くが、どうしてうちの125と250が負けたと思うね」
「そりゃ、性能が悪いからでしょう」
「そうじゃないんだよ、君。エンジン、エンジンのパワーがありすぎるから負けたんだよ」
「どういうことですか?」
「いいかい、125も250も、今だって、世界一のパワーを出してるんだよ」
「・・・・」
「考えてごらんよ、君。うちが、もし今世界で一番速いあちらさんのマシンと同性能のマシンを開発したとしよう」
「はあ」
「俺が、うちのマシンも世界一速いぞ、と言ったからって、信じるか? 現に君だって、うちのマシンは性能が悪いと思って、このインタビューに来ているんだろう」
「はあ」
「つまりだ、俺がこのマシンは世界一だ、と言ったところで、あるいは、日本で優勝したマシンだと言ったところでだ、一流のライダーは決して、うちのマシンには乗らない、ってことさ」
「そ、そうでしょうね」
「ということはだ、うちが優勝したければ、むこうの2流か3流のライダーが乗っても勝てるマシンを作らなゃいかんのだ」
「・・・・・・」
「あるいは、日本人のライダーが乗って・・・・」
「日本人のライダーを起用されるおつもりなんですか!?」
「あたりまえだ。むこうの2流3流ライダーに勝つチャンスをあげるくらいなら、日本人にも上げなきゃ不公平というものだろう」
「そ、それはそうです。ぜひ日本人ライダーにもチャンスをあげてください!」
「そうだろう、だから、俺たちは苦労してるんじゃないか、君だって、日本人のライダーに勝って欲しいだろ、なら、俺たちを応援してくれよ、俺をほら吹き、ってけなしてばかりいないでな」
「はっ、はい。・・・で、先ほど、負けた原因は、パワーがありすぎたと言われましたが、その点の説明を・・・・」
「今までの、125や250のマシンの常識をこえたパワーがうちのエンジンにあったとすれば、車体もそれにふさわしいものを開発しなけりゃならないだろう」
「はい」
「せっかくのパワーが、地面を蹴る代わりに、ありあまってタイヤを空転させてしまってはなんにもならないからな」
「はい」
「しかし、未知の領域だからな、経験がないんだ、経験が。経験とか実験こそがものをいうんだ。それには時間がかかる。どうしてもな。アイディアだけではだめな部分もあるんだ。正直言うとな、うちはエンジンの開発で手一杯だったよ。だからシャーシーの方は後回しになってしまったんだな。だが、もうエンジンの方向性は見えてきたぞ。これからはいいシャーシーも作る」
「・・・・・・」
「いいか、君。君も日本人だ。日本人が、どうせ日本人のやることだから、と冷たい目で見合うんじゃなく、お互い世界に誇りを持てるようになりたいとは思わんか?」
「そ、それは」
「なら、応援してくれよ。俺が、たくさんの日本人に、日本人に生まれて良かった、思えるようにしてみせるからさ」


2001年2月20日:本田宗一郎物語(第62回) につづく


参考文献:「本田宗一郎物語」宝友出版社、その他

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