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2001年2月24日:本田宗一郎物語(第66回)

  本田宗一郎物語(第66回)

「おやじさん、河島さんから国際電話ですッ」
 切迫したスタッフの声が、研究室に響きわたった。何日にもわたる徹夜作業のすえ、なんとか四台のRC141を送り出し、いくらか睡眠はとれたものの、自分達のマシンが無事着いたのか、無事走ることができたのか、そして、自分達のマシンのレベルがどれくらいなのか、万が一に備えてしておくべきことはないか、さらなる緊張が続いていた。そこに響いた電話であった。
 宗一郎は、受話器を取ってから自ら話すことなく河島の報告を聞いていた。
「わかった、直ぐに準備をして送るから待ってろ、いいな!」
そう言って受話器を置いた宗一郎は、スタッフに向かって言った。
「悪いが、もう一仕事してもらうぞ」
「どんな具合だったんでしょうか?おやじさんの言っていた通りだったのですか」
と、誰かがおずおずと尋ねた。
「そうだ。まだパワーが足らなかったということだ。さすがMVだ」
「では、おやじさんが言っていたように、4バルブのヘッドでいくんですね」
「こんなことなら、最初から4バルブを送っておけばよかったな」
「・・・・・」
「もうすこし休んでもらいたいところだが、4バルブのヘッドの調整をしてもらうぞ」
「おやじさんが4バルブでいく、といったのに、反対したのは僕達ですから」
「それなら、すぐとりかかってくれ。いいか、向こうにある2バルブのヘッドにすばやく換えられるように、きちんと調整しとけよ。向こうでは、時間も機材も十分じゃないんだ。・・・誰だ、そこで居眠りしてるのは!
そういう奴がいると士気がさがる。とっとと帰れ!」
「おやじさん」
と、別のスタッフが声をかけた。
「おやじさん、奴を怒らないでやってください。2バルブでいく、と決まったとき、悔し泣きをしたのは奴なんです。2バルブを送りだしてからも寝ずにずっと4バルブの調整もしていました」
「わかった、帰らなくいい。早く取り掛かれ、いいな」
「は、はい」
 こうして、2バルブに平行して開発していた4バルブエンジンのヘッドの部分を改良して送り出し、すでに現地にある2バルブエンジンのヘッドに換えてレースに臨むことになったのである。
 T・Tレース125ccクラスの決勝がスタートしたのは、昭和34年6月3日、午後1時。マン島は快晴であった。
 本田技研のRC141は、全てのレース関係者の予想に反して、そして本田技研のスタッフの予想にも反して全車完走したのであった。
 順位は6、7、8、11と初出場ライダー、初出場マシンの組み合わせながらポイントをあげ、メーカーチャンピョンを取得するというおまけつきだった。
 このニュースは日本中をかけめぐった。たくさんの祝電が届き電話が鳴った。しかし宗一郎は不機嫌だった。
「ちょっといい結果が出ると、騒ぎやがる。結果が出てから、そう思っていました、って言う奴ほどたちの悪い奴はいないな。藤沢や河島を見ろ。俺が無名の時から、俺を信頼してきている。こういう奴が本物なんだ」

 宗一郎の執念が実るのに、さして時間はかからなかった。それから二年後の昭和36(1961)年、マン島のT・Tレースで、本田技研は125ccと250ccの両クラスにおいて、一位から五位までを独占するという完全制覇を達成。世界の度肝を抜いたのである。

 この原稿に手を入れている私(当時11歳)は、このニュースをラジオで聞きました。確かこんな内容でした。「日本製のオートバイが、イギリス・マン島で行われたオートバイレースで1位から5位までを独占しました」

 宗一郎がことのほか喜んだのは、ある外国人スタッフの次のような声だったという。
「日本の作るものは物真似ばかりだと思っていたが、ホンダのエンジンの中を見せてもらって驚いた。それはまるで腕時計のような精密さで作られていた」
 また、このときも監督をつとめた河島喜好は、レース後にこんな感想をもらしている。
「案外、かんたんに世界一になれるもんだな」
 しかし、その感想が、宗一郎のさらに高い目標の前に後悔の念に変わるのを、河島はまだ知らない。

 宗一郎たち技術陣が寝食を忘れてレーサーの開発にのめり込んでいる頃、アメリカでは、川島喜八郎が車を飛ばしてセールスに奔走していた。ほとんど未知のアメリカ市場に、独自の販売網を作れという藤沢の指令は、無茶といえばこれほど無茶なものもない。受けて現地入りした川島も、幾度となく自分の無鉄砲さを悔やむことになった。
 アメリカ・ホンダの前線基地として川島が選んだのはロスアンジェルス。まずは借家で始めるのが常識的な方法だが、川島は十五万ドルを使っていきなり店舗を購入した。後には退けないという覚悟の発露である。スタッフは、川島を含めて日本人が三人、日本から同行したアメリカ人と日系二世のセールス・マネージャーに加えて、現地採用の五人、合わせてわずか十人で、本田技研初の海外法人は動きはじめていた。
 街から一歩でも出外れれば、そこは広い砂漠である。砂漠をつらぬく一本道を、トラックにスーパーカブを載せ、慣れない左ハンドルと格闘しながら走ったこともある。日本に引き上げることを本気で考えたこともあった。何をするにも不自由な異国での日々、懸命にオートバイを売り歩く川島を支えていたのは、ひとえにホンダ・マンとしての誇りであった。それは、藤沢から聞かされた次のようなことばから醸成されていた。
「何も知らないアメリカで引っかかりやコゲツキが起こるのは当たり前だ。そういう場合は弁護士にまかせろ。売れない責任はおれがとるし、売上金はどんどん使っていい。とにかく新しい販売店の開拓にだけ力を注いでくれ」
 他力を請わず、自分たちの力だけでやってみる。これは、技術でいえば他社の模倣をしないという信条に通ずる。そうして起こった失敗の責任を、決して出世と結びつけないことも、宗一郎と藤沢が暗黙のうちに築いた、強烈なホンダイズムのひとつであった。
 川島たちの努力が通じて、スーパーカブは少しずつ売れはじめていた。しかし、日本では誰も予想していなかった問題に、ホンダ・アメリカはすぐさま、さらされるのである。


2001年2月25日:本田宗一郎物語(第67回) につづく


参考文献:「本田宗一郎物語」宝友出版社、その他


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