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2001年2月25日:本田宗一郎物語(第67回)

  本田宗一郎物語(第67回)

「何だって? 船ごと送り返されてきたっていうのか!?」
「すまない。そうなんだ。ひと船まるまる」
「・・・・そうか。で、何故だ?」
 アメリカに輸出したはずのスーパーカブが、日本の港に戻ってきている。
「修理が必要だというんだ。故障するのはわかっているから、直してから送ってと言っている。俺も向こうに行くべきだった。とにかく、すまん」
「すまん、なんて言わんでくれよ。で、何をすればいいんだ」
 藤沢は説明した。日本とアメリカの道路事情の違いであった。整備された広い道路で、アメリカ人はとにかくスピードを出す。その結果、日本では高性能とされていた二輪車が、続々とトラブルを起こしたのである。
「そうか。結局は俺のミスだ。わかった、すぐ対処するから」
「あっちで売れた分の修理部品は、飛行機で送ろう。船便じゃ間に合わないからな」
「そうしてくれ」
 宗一郎はくるりと背中を向けると、研究所へ急いだ。生来の負けん気に火がつき、腹のなかは口惜しさで煮え返っていた。一方で、宗一郎の技術者魂は早くも冷静な計算を始めていた。スピードに関する認識を改め、しかもそれを安全走行に結びつけなければならない。頭はうなりをあげて回転し、さまざまなアイディアが湧き出てくる感覚があった。これなら行ける。宗一郎はさらに足を速めて歩いた。

 昭和35(1960)年3月、本田技研は二十一万坪の用地に鈴鹿工場を建設。7月には研究部門を分離独立させ、株式会社本田技術研究所を設立している。宗一郎はその研究所にこもり、レーサーの開発と並行する形で、スーパーカブの改良に打ち込んだ。すさまじいばかりの集中力で、欠点と思われる部分を見つけては次々に改善してゆく。これには、マン島で培ったスピードと耐久性のバランスをいかにとるか、というノウハウが大きくものをいったのである。

 アメリカ・ホンダの業績は、日を追って確実に伸びていった。だが、ある時期を境に、その上昇線は急激にはね上がる。何が起きたのか、日本にいる宗一郎や藤沢には理解できなかった。その理由は、興奮気味にはずむ、川島の声によってもたらされた。
「キャンプですよ、専務」
「キャンプ?」
「アメリカ人は、週末、キャンピングカーで出かけることが多いんです。車にスーパーカブを一緒に載っけて行って、出かけた先で乗るんですよ。山道や湖の近くなんかでね」
 今ではオートバイの専門店だけでなく、スポーツ用具店にまで販路は拡大しているという。レジャー用品という新たな位置付けを、スーパーカブは彼の地で得たのだ。
「バイク嫌いだと思われていたアメリカ人が、自分たちで新しい使い方を開発してくれたわけです。これはすごいことですよ」
 当時の日本首相、池田勇人は、アメリカを訪問した際、ジョンソン大統領の口から、こんなことばを聞いて大いに面食らった。
「ミスター・ホンダは実にすばらしい人物だ。われわれアメリカ人の生活のスタイルまで変えてしまったんですからね」
 帰国後、池田首相が宗一郎に面会を申し入れたのは、よく知られるエピソードである。

 アメリカでの二輪車のイメージをまったく変えたスーパーカブ号は、"二輪のフォルクスワーゲン"という評判まで得て、一躍、輸出の花形となった。同時にヨーロッパや東南アジアへの輸出も順調に伸びつづけ、昭和37(1962)年には、ベルギーのホンダモーターSAでも生産を開始。HONDAは、日本商品の代名詞となってゆく。日本企業が現地法人として続々と海外に進出するのは、ホンダのこの成功を見届けてからのことである。

 この間に、本田技研は生産調整という事態を経験している。初めて経験する大量生産・大量販売のバランスの取り方を見誤ったからであった。昭和36年の春には四万台近い在庫をかかえ、置く場所にも困る状況となった。
 らちのあかない役員会議で、藤沢は声を荒立てていった。
「五日間休んでしまえ」
 増資を5月に控えたタイミングでもあり、世間の評判を気にして、他の役員たちは渋った。しかし藤沢はこう述べ、強引に押し切った。
「メーカーというものは生産調整もやるんだってことを、この際世間にも認識してもらった方がいい。こういう覚悟や判断ができることの方が、立派な会社だ、ってわかってもらおうじゃないか」
 この生産調整のために、銀行に新たに数十億の借り入れを申し入れることになった。藤沢は銀行に一人で出向いて行き、頭取以下十数人の重役を前にした。
「あとどのくらいの資金が必要になるのか、ご説明願いたいのですが」
 藤沢は淡々と応えた。
「いまお願いしてある額だけで十分です。八月頃になれば順調に回転していきます。それからスーパーカブの増産を再開します」
「大丈夫なんですね、藤沢さん」
「私が、約束を守れなかったことがありますか」
「そうですが、生産調整のための借り入れは、マイナス要因ですからね」
「私は、そうは思っていません。世間一般的にはマイナス要因に身えることでも、それが会社のためになることなら、きっぱりと決断できることが、これからの会社には必要だと思っています。いかがでしょう」
「大丈夫なんですね」
「大丈夫です」
「わかりました」

 そして事態は藤沢の言った通りに進んだ。当時、世間からは一種の暴挙に見えたことも、本田・藤沢の信念と絆によって、かえって本田技研の企業体質をいっそう強靭なもにしたのである。その過程自体が、言ってみればホンダの独創でもあった。


2001年2月26日:本田宗一郎物語(第68回) につづく


参考文献:「本田宗一郎物語」宝友出版社、その他

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