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2001年2月1日:本田宗一郎物語(第43回)

  本田宗一郎物語(第43回)

 宗一郎の檄が飛んだその日から、本田技研の東京工場では、オートバイに搭載するOHV方式の4サイクル・エンジンの開発をめぐって、夜を日に継ぐ研究が始まった。
 サイドバルブ方式のエンジンは、吸気バルブ(弁)と排気バルブ(弁)がシリンダーの側面(サイド)にあるエンジンのことをいう。弁を動かす機構が簡単なので、当時の4サイクルエンジンはこの方式を採用していた。しかし、燃焼室の形状が、上部、つまりバルブのある位置では、ピストン径より大きくなるので、圧縮率をあげることができない。
 圧縮率を上げるには、バルブをピストン径の内側に収まるようにしなければならないが、それは、バルブをシリンダーの上(オーバーヘッド)に置くことを意味している。シリンダーの上にあるバルブを動かす機構は、かなり複雑になり、摩擦抵抗の増大を招く。圧縮率を上げパワーを上げても、摩擦抵抗で相殺されてしまうのであれば、オーバーヘッドにする意味はない。そのため、世界的にも小型エンジンでOHVに挑戦するところはなかったのである。
 寝食を忘れて研究に没頭する宗一郎と、その傍らから片時も離れない河島を中心に、スタッフはひたすら開発に打ち込んだ。連夜、設計室の灯りが消えることはなかった。

 その頃、営業所では、藤沢が苦しい販売活動を強いられていた。4サイクル・エンジンの人気に2サイクルのドリーム号が押されている事情に加え、季節は晩秋を迎えていた。宗一郎に告げた通り、これまで藤沢は、宗一郎をはじめとする技術陣に向かってひとことも発していない。この状態がいくら続こうと、口を開くつもりは藤沢にはなかった。
 最悪の季節であった。雪がちらつけば泥道だらけになるという道路事情では、オートバイの需要は冬から春、気温に合わせるように冷え込んだ。当時、オートバイは季節商品でもあったのである。加えてドリーム号D型は、泥除けと車輪の間が狭く、泥がつまりやすいという弱点を露呈してもいた。タイヤが動かなくなれば、エンジンも焼け付く。売れ行きが伸びて買い手が全国に広がった結果、未舗装路の多い田舎の道でそれが指摘されたのは、皮肉というしかない成り行きでもあった。
「どこの代理店も春まで商品はいらないそうです……」
「冬場は商売になりませんよ。悪路に弱いというのは致命的です」
 営業所に戻ってきた従業員から似たような報告を次々と受けた藤沢は、東京の空にも舞い落ちはじめた白い雪片を見上げて、祈るようにつぶやいた。
「そうか。来年の春を待つしかないか……」

 昭和26(1951)年が明け、藤沢が待ちこがれていた春が訪れた。前年に勃発した朝鮮戦争によるアメリカの特別需要、いわゆる特需で、好景気も続いている。これならドリーム号でしのぐことができる。藤沢は安堵し、期待に胸をふくらませた。
 しかしその年、関東地方は季節外れの大雪に見舞われる。灰色に湿った雪は、藤沢の希望を冷たく塗り込めるように、来る日も来る日も降り続いた。

「ちょっと一緒に行こうや」
 藤沢の家に宗一郎が車で乗り付け、いきなりそう言ったのは、きれいに晴れ上がったある早朝のことであった。
 すでに雪は上がり数日が過ぎていたが、ドリーム号の売れ行きははかばかしくなかった。雪解け後の路面の悪さばかりではない。それ以上に藤沢を悩ませていた要因は、人々のイメージであった。消費者はドリーム号に、すでに使命を終えた古いタイプのオートバイという烙印を焼きつけてしまっていたのである。
「えらく飛ばすね。どこへ行くんだい」
 車のなかで、藤沢はそれだけを訊いた。
「十条工場だ」
 宗一郎はそれだけを答えた。
 あとは無言である。
 いつもは一緒に車に乗ると、運転もおろそかになるほど話に熱中する宗一郎の重い沈黙が、藤沢にはただ不気味だった。やがて耐えきれなくなった藤沢は、かさねて訊いた。
「十条に何があるんだ?」
「来てみればわかる」
 朝は早く、人の姿もまばらである。静まり返った東京の街を、宗一郎の運転する車は特にスピードを上げるでもなく、エンジン音だけを響かせて走り抜けて行った。


2001年2月2日:本田宗一郎物語(第44回) につづく


参考文献:「本田宗一郎物語」宝友出版社、その他


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