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2001年3月2日:本田宗一郎物語(第72回)

  本田宗一郎物語(第72回)

 研究所内部で、F1に進出するべきか否かが議論されたことは一度たりともなかった。
 二輪の次は四輪だ。そうした空気が暗黙のうちに醸成され、やるならF1という宗一郎の意思は、規定の事実としてごく自然に技術陣の胸に着床していったのである。
 その事ぶれは、宗一郎のF1参戦発表の約2年前にさかのぼる。昭和36年の暮れ、本田技術研究所は、ホンダのオートバイ・チームのライダーだったボブ・マッキンタイアの未亡人を経済的に援護するため、一台のF1マシンを入手していた。クーパー・クライマックス2.5l。かつてワールド・チャンピオンにも輝いた名車である。中村を中心とする四輪開発チームは、この車を荒川の河川敷に設けられた全長2kmのテストコースに持ち出し、おそるおそるエンジンをかけてみた。エンジンは不機嫌そのもので、F1の知識のない彼らにはどうにも扱いようがなかったが、おぼろげながら、F1マシンの感触らしきものをこのとき彼らは得ていたのである。
 昭和37年になると、ホンダのF1進出がまことしやかにささやかれるようになった。噂に火をつけたのは外国人のジャーナリストたちであった。常識外れのエンジンを作成し、オートバイのレースで躍進を続けるホンダの名前は、国内よりも海外ではるかに評価が高まっていたのである。
 まずイギリスの『モーター』誌がホンダのF1進出計画を取り上げると、イタリアとアメリカの自動車誌が、驚くべきことにホンダのF1エンジンの想像図までつけて特集を組んだ。ホンダは公式発表をしておらず、エンジンなど影も形もない時期のことである。
 秋になると、モーターショーの取材に来日していた二人の外国人記者が、宗一郎に直接インタビューを申し入れてきた。スイスとイギリスの、いずれも専門誌の記者である。技術研究所を訪れた彼らは、通訳を命じられた中村を通じて、ずばりと訊いてきた。
「ミスター・ホンダ。御社のF1計画に関する具体的な話をうかがいたい」
 宗一郎は、胸を張って応じた。
「一年以内にF1マシンを発表することになるでしょう」
 これが、マスコミに対する宗一郎の最初の意思表明であった。T・Tレースへの挑戦を高らかに謳い上げたときの烈しい宣言文も何もない、いわば密室での表明である。事実、これに注目した国内のジャーナリズムは皆無に等しかった。
 突然の発言に首をかしげ、中村は宗一郎の様子をうかがいつつ、記者たちに英訳する。
「そうか、やはりな」
 しきりにうなずき、メモを取る外国人記者に向かって、宗一郎はさらに勇ましいことばを続けた。
「そして、われわれのF1マシンには、これまでにF1で名を馳せたいかなるメーカーも遠く及ばない、すばらしい性能のエンジンが載せられるでしょう」
 中村は目を白黒させ、思わず絶句して宗一郎の顔を見た。このときホンダには、F1はおろか、レースを戦える四輪車の図面一枚なかったのである。
「何をしているんだ。早く訳せ」
 いらいらと眉をひそめる宗一郎に肘をつつかれ、中村はつっかえながら、宗一郎のことば通りに通訳した。二人の記者は、満足そうに研究所をあとにした。
「あの……社長」
 そのまま研究室に向かおうとする宗一郎に、中村はあわてて声をかけた。
「何だ」
「あの、いいんですか。つまり、あんなことをぶち上げて」
「事実を言ったまでだ。おい、忙しくなるぞ。プロジェクトの監督はお前なんだからな」
「え……!」
 再び絶句する中村を残し、宗一郎はすたすたと歩き去った。

 こうして、昭和38年の1月、ホンダのF1プロジェクトはいよいよ本格的に動き出す。
「いいか、フェラーリもBRMもコベントリーも、F1で勝っているエンジンは似たりよったりだ。回転数は8千から1万、最高出力は180から190馬力にすぎない。うちは20%上、220馬力が目標だ。いいな!」
「……」
「なんで、黙っているんだ。二輪の奴らを見てみろ、奴らは250cc4気筒を1万4千回転回して、46馬力だしてるぞ。1500ccなら、6倍だから、24気筒、まあ、45かける6だから、280馬力は出るだろう。だから、220馬力なんて、ちょろいもんだろう」
「あの……」
「なんだ」
「あの、四輪のエンジンは二輪と同じというわけには」
「どうして、そんなことが言えるんだ」
「……」
「じゃあ、お前は、二輪のエンジンのこと、知っているのか」
「いえ、わたしの専門は、四輪で」
「二輪のことを知らないで、どうして四輪と違うって言えるんだ」
「……」
「とにかく、220馬力以上だぞ。それとな、エンジンは、横置きにしろ」
「あの、どうしてでしょうか」
「いいか、タイヤの回転軸とエンジンの回転軸が平行なら効率がいいだろう。俺は力を90度曲げるのは好かんのだ。見るからに効率が悪そうだろ」(註:今でもホンダの市販車のほとんどが、横置きである。最高峰のスポーツカーNSXも横置きエンジンなのである)
「……」
「それとな、俺はよそさんが、どうしてギアボックスとエンジンを別々に作るのか理解できん。エンジンとギアボックスは、一体化しろ。部品点数も減りそれの方が効率がいい」
「……」
 こうして、中村をはじめとする四輪屋の経験を全く無視して設計されたエンジンに、RA270Eというコードネームが着けられた。この常識を覆す、というよりは常軌を逸したエンジンのスペックは、1500cc、横置きV型12気筒、48バルブ、エンジン・ギアボックス一体型というものであった。それはどこからみても、化け物ではあるが、まぎれもなくオートバイ用のエンジンであった。


2001年3月3日:本田宗一郎物語(第73回) につづく


参考文献:「本田宗一郎物語」宝友出版社、その他

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