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2001年3月3日:本田宗一郎物語(第73回)

  本田宗一郎物語(第73回)

 文句ばかり言って先に進まない四輪チームに腹を立て、宗一郎は、RA270Eの設計を、グランプリ優勝経験のある二輪チームにまかせた。とにかくパワーだ、という宗一郎のもとで設計されたRA270Eは、1500ccでありながら、ベンチテストでいきなり200馬力を超える出力を記録したのだ。
 宗一郎は満足だった。数か月前、ヨーロッパの記者たちに対して見栄を切った、「これまでにF1で名を馳せたいかなるメーカーも遠く及ばない、すばらしい性能のエンジンを作ってみせる」という発言が早くも現実のものとなったからである。しかし宗一郎は手綱を緩めなかった。他チームに対して圧倒的なパワーの差が欲しかった。最低でも220馬力と宗一郎は思っていた。
「いいか、気を緩めるなよ!本番のレースで、1万2千回転、220馬力出るエンジンが目標だ」
 当時ホンダは、テスト用にクーパー・クライマックス2.5lというF1マシンを所有していた。しかし、このマシンに、RA270Eのエンジンをそのまま載せてテストするわけにはいかなかった。まず第一に、ホンダのエンジンは横置きだったからである。第二にパワー優先の設計で、重かったのである。
 実戦用のエンジンの設計開発。テストのためのシャシーの改良。仕事は山ほどあった。宗一郎は朝早くから夜遅くまで、陣頭指揮をとった。
 宗一郎は、早朝に研究室にやって来ると、試作品用の棚に予定通りのパーツが完成してきちんと並んでいるかどうかを先ずチェックした。間に合わないものがあったり、品質が低かったりすると、宗一郎はその担当エンジニアをすぐさま呼びつけ、殴るか怒鳴るかしたのである。
「このバカヤロー! お前なんかやめちまえ。明日からもう来るな!」
 若いメカニックの作業に苛立ちが高じると、宗一郎は我を忘れて叫んでいた。
「炭持ってこい。それからふいごだ!」
 そうしてメカニックからパーツを奪い取ると、熟練した鍛冶屋の手さばきで、ギヤの欠損などあっという間に修理してしまうのである。その技量には誰もかなわなかった。
 宗一郎の心身は燃えさかっていた。どうにもとめようのない本能に似た感情が、宗一郎をF1への参戦、いや、F1での勝利へと駆り立ててやまぬのであった。

 ホンダF1プロジェクト・チームには、すぐにでも決定しなければならない課題がひとつ残されていた。チーム体制である。フェラーリ、ポルシェ、BRMといったチームが、エンジンとシャシーの両方を作ってフルカー体制でエントリーする一方、コベントリー社のようにエンジンだけを作って他のF1チームに供給するメーカーもあった。議論を重ねた末、ホンダは後者を選ぶことにした。フルカー体制でレースに臨む場合は、チーム運営からドライバー契約までホンダ自らがやらなければならない。それにはF1に関する知識があまりに乏しかったためである。もうひとつに、レギュレーションの問題があった。
「1966年から、F1は3000ccになることが決まっている。今1500cc用のシャシーを作っても、それを二年で勝てるレベルまで熟成させるのは難しい。だったら、今は勝てるエンジンを作ることに集中するんだ。それで行くぞ!」
 おやじさんは、本気で勝つ気なんだ。スタッフの全員が、ぞくりと身を震わせた。

 F1チーム監督の中村がヨーロッパへ飛んだのは、昭和38年8月。ホンダと提携するチームは、シャシーだけを作っているブラバムかロータス、クーパーの三社に絞られていた。いずれもイギリスのチームである。
 翌月帰国した中村は、いくつかの好感触から、ブラバムと手を組むことをほぼ決めていた。ところがそこで、予想外のことが起こった。ロータスのオーナーであるコーリン・チャップマンが、中村を追うように来日したのである。
「どうしてもホンダ・エンジンがほしいんだ。来シーズンは二台エントリーする予定でね。一台はこれまで通りコベントリーのクライマックス・エンジン、もう一台にホンダを載せたいと考えている。ホンダの戦闘力の方が上であれば、ジム・クラークにドライビングさせるつもりだ」
 抵抗しがたい誘惑であった。名門ロータスの、世界に名を馳せる設計者であるチャップマン。そして不世出の天才と呼ばれるジム・クラーク。夢のような組み合わせである。この申し出を断ることは、中村にはどうしてもできなかった。

 スケジュールに関する話し合いが終わり、コーリン・チャップマンが帰国すると、エンジニアたちにはさらに苛烈な作業の日々が待っていた。宗一郎の飛ばす檄と怒声はいっそう烈しさを増し、研究所には夜を徹してF1エンジンの音が鳴り響いた。全員が、実戦用のエンジンを間に合わせようと必死になって働いた。仕事というより、それはすでに闘いであった。
 12月初旬までにレース用のRA271Eのダミー・エンジンをロータスに送り、そこでシャシー製作の段階に移る。さらに翌昭和39年2月には最終型のエンジンを完成させてイギリスに空輸し、ロータスで熟成テストに入ることになっていた。厳しいスケジュールである。しかし滞りなくやり遂げることができれば、ホンダ初のF1エンジンは、5月10日、第一戦のモナコ・グランプリで華々しいデビューを飾ることになる、全員がその日を照準に合わせ、自らを奮い立たせていたのであった。


2001年3月4日:本田宗一郎物語(第74回) につづく


参考文献:「本田宗一郎物語」宝友出版社、その他


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