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2001年3月5日:本田宗一郎物語(第75回)

  本田宗一郎物語(第75回)

 それはさながら、研究所を急襲した嵐であった。
 F1マシンのシャシーを作る。口にするのは簡単だが、その困難さを思うとエンジニアたちは一斉に青ざめた。当時の日本には、フォーミュラーカーのシャシー製作に必要な部品など、どこを探しても存在していなかった。それ以前に部品を作るために必要なデータがなかったのである。
 ホンダが四輪の試作車を作ったとき、直線では調子よく走る車が、カーブに来るとエンジンが咳き込んでしまってまともに走らなかった。原因を調べれば、カーブにさしかかるとガソリンが燃料タンクの片側によってしまって、エンジンの方に送り込めなくなってしまうことがわかった。「そうか、二輪のタンクは、いつでもエンジンの上にあるからな気が付かなかったな」、というエピソードがある。決してお手本を先に見ない、何事も実際に自分で確かめ、失敗をしながら、そこから得られたデータを大切するホンダならではの笑い話ではあるが、その体質こそがF1で勝つことにとっては、致命的であった。中村はそう思った。
 ボディの剛性をどこまで高めればいいのかがわからない。サスペンションの強度もわからない。ジュラルミンやマグネシウム、チタンといった金属素材の加工技術も足りない。
 F1レースの過酷な走行に耐えられるブレーキも、二時間を走りきるタイヤさえなかった。困難どころではない。中村だけでなく、誰が考えてもそれは確実に不可能だったのである。
 しかし宗一郎は、フルカー参戦することが決まるや否や、プロジェクト・チーム全員を集めて、全身から火を噴くような勢いで告げた。
「いいか、確かに俺達には経験がない。頼りになるのはアイディと団結力だ。いいか、絶対に物まねはするなよ。どんなに金がかかろうとかまわん。全部自分達で作れ。やがてそれは日本の工業界の資産になる、いいな!」
 これを聞いて中村は、絶望的な気持ちになった、
「ああ、これでは勝てない。それどころか、完走すらできないぞ。ああ、笑いものになる」
 しかし、技術者達は中村が思っていたのとは違う反応を示した。みんなが生き生きしているのである。
「なんだこいつら?狂っているのか、バカなのか。信じられん」
 中村はそう思った。
「こいつらは、現実を知ら無さすぎる、今に痛いめに合うぞ」
 それが現実であることを、技術者達はまだ知らない。

 RA270Eを載せたテスト用のシャシーはあったが、クーパー・クライマックスを下敷きにしたため、四本のパイプをカウルで包む鋼管スペースフレーム構造になっていた。ここに横置きの巨大なエンジンを積むと、車体の幅は、最も幅広のエンジンに合わせなくてはならず、それは空気抵抗を考えると、F1マシンに適した形状とはとてもいえなかった。
 宗一郎が、テスト用の車体を見に来たときのことである。
「誰だ、こんな不恰好なものを作ったのは」
「は、はい、私です」
「こんなに幅が広かったら空気抵抗が大きくなることぐらい、わからんのか!」
「お言葉ですが……」
「何だ」
「あの、エンジンが横置きなので、そこに合わせると」
「どうしてそこに合わせなけりゃいかんのだ」
「パイプのフレームはストレートでないと強度が」
「そんなことなら、パイプなど使うな。だいたい俺がエンジンを横置きにするのが気に入らないから、何でもそのせいにするんだろ? 気に入らないなら、辞めろ!」
「……」
 ホンダの技術陣は、横置きエンジンを載せるための苦肉の策として、パイプを使わない方法を考えだした。外板の金属自体に強度を持たせるモノコック・フレームである。皮肉にも、ロータスのコーリン・チャップマンも同時期にこの方法を採用している。つまり、最新鋭の技術だったのである。
 モノコック・フレーム・シャシー製作のチーフに選ばれたのは、大学の航空学科を出てわずか四年の、佐野修一という若いエンジニアだった。モノコック構造は飛行機の胴体にヒントを得た技術であり、佐野は大学で機体設計を専攻していた。それだけの理由である。
 当然、実際にモノコックを作ったことはなく、F1マシンに必要な剛性も、材料も、接合用のリベットの本数も、何ひとつ知らなかった。机の上で強度計算をし、あとはとにかく壊れないように、できるだけ頑丈に作る。それしか佐野に選べる方法はなかった。
「おい、なんでアルミなんか使ってるんだ」
 佐野がシャシーの製作にかかると、すぐさま宗一郎から不満の声が飛んだ。
「飛行機を見ろ。ジュラルミンを使っているじゃないか。軽くて強いからだろう。ジュラルミンを使え。その方がいいに決まっている」
「はい。それはわかっているんですが……」
「じゃ、なせだ、言ってみろ」
「聞くところによると、他のチームもアルミを使って……」
「他のチームの真似をするな、と言っただろ! それに、どんなに金をかけてもいい、って言っただろう」
 佐野は従った。だが、さして効果を得ることはできなかった。ジュラルミン本来の強度を出すには高熱の炉で熱処理をする工程が必要だが、それを有しているのは重工業会社だけだった。炉を使わせてもらうことはできず、結局、生のジュラルミンを使うことになったためである。
 万事がこの調子だった。
 宗一郎は、チタンを使えと言う。しかし、チタンを加工する技術が日本にはなかった。しかたがないので、試作室の職人たちはチタンのブロックを運び込み、何日もかけて一個一個を削り出す作業に追われた。脚まわりを担当したエンジニアは、国内のメーカーにマグネシウムのホイールの製造を頼み、鼻先で冷笑された。
「冗談もほどほどにしてくださいよ。ま、半年あれば何とかね」
 エンジニアは椅子を蹴ってメーカーから立ち去った。半年後ではレースに間に合うはずがない。結局ホイールは、アメリカのメーカーに発注するしかなかった。
 ホンダのエンジニア達は、宗一郎の先行するアイディアと、現実の間で苦しんだ。宗一郎に叱られたくないばっかりに、一応やってはみるものの、それでも宗一郎のスパナを食らった。わけがわからず辞めていった者もいた。客観的にみれば宗一郎の言っていることは不条理であった。誰もがそう感じたが、また、こうも思っていたのである。
 「俺達の尺度では、不条理に映るものも、おやじさんの尺度、俺達の知らない高い視線からは、きっと理に叶っていることなのだろうな。俺達はそれを信じるんだ」


2001年3月6日:本田宗一郎物語(第76回) につづく


参考文献:「本田宗一郎物語」宝友出版社、その他

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