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2001年3月11日:本田宗一郎物語(第81回)

  本田宗一郎物語(第81回)

 8月2日の朝が訪れた。
 ドイツに乗り込んだホンダのF1クルーは、日本人の作った車がF1を走ろうとする、まさに歴史的な瞬間を迎えようとしていた。だが、バックナムの乗るRA271がピットから出て行くと、感慨にふける余裕のある者は一人もいなくなった。疲れと安堵に、全員がその場にへたり込んだ。残っている力は一滴もなかった。
「何とかなりましたね」
「ああ、格好だけはな」
 声をかけてきたエンジニアに、中村は短く応えた。その眼も、睡眠不足で真っ赤である。
 パレード・ラップを終えたマシンが、フェラーリを先頭にスターティング・グリッドに次々と帰ってきた。その頃から、疲れ果てていたはずのホンダF1チームの面々はそわそわと落ち着かなくなり、誰が声をかけたわけでもないのに、全員がピット・ロードの最前方へと移動を始めた。眼と動きに精気が戻っていた。
 やがて、最後尾の22番グリッドにRA271が戻ってきた。持ちタイムは9分34秒3。ポール・ポジションを奪ったフェラーリのサーティースからは1分近い差がある。だが、そんなことはどうでもよかった。おれたちの車がここにいる。グリッドについたRA271の姿を目にしただけで、全員の胸がいっぱいになった。何ともいえない気持ちだった。エンジン音が高まると、鳥肌が立ち、涙があふれた。どうしようもなかった。

 シグナルが変わり、全車がスタートを切った。それからの時間はおそろしいほどの勢いで流れ去った。積載した燃料は120リットル。23km近いコースを十五周するレースの走行距離は340kmに達する。キャブレターが未調整なため、RA271の燃費は未知数であった。作戦など何もなかった。止まるまで走れ、中村がバックナムに言えたのは、それだけだった。バックナムは猛然と突っ走った。だが、誰も何も期待していなかった。レースに間にあった、それだけでよかったのだ。しかし―

「また抜きました。十五位ですよ、監督!」
「わかってる! サインボードを貸せ!」
 順位を書き込む中村の手が震えた。ピットは大騒ぎになっていた。コースの特性に馴れると、バックナムはスピードを上げ、それにつれて順位も一周ごとにどんどん上昇していった。ストレートで並ぶと、RA271のトップ・パワーにかなう車は一台もいなかった。九周目までに、バックナムは十一位に上がっていた。
「監督ッ。あと六周ですよッ!」
「わかってる。いいから静かにしていろ!」
 クルーと中村は、エンジンのすさまじい排気音のなかで、そんなことを話していた。観客も熱狂していた。ドイツの期待を一身に担ったポルシェがスタートできず、スタンドに陣取るドイツ人の全員がホンダの応援に回っていたのである。
 RA271がメインスタンド前を通過するとき、歓声は悲鳴に近い絶叫へと高まった。それに後押しされるように、十二周目にはRA271は何と九位にまで順位を上げていた。
 大変なことが起きようとしている。スタッフの誰もがそう感じはじめていた。だが次の瞬間、ホンダF1にとって初のグランプリ・レースはあまりに唐突な幕切れを迎えた。場内放送が、ホンダの車がアクシデントに見舞われ、リタイヤしたことを告げたのである。
「からみはなく、クラッシュしたのはホンダのみ。ドライバーに怪我はない模様です」
 しん、となったピットから飛び出し、中村はコースの外側を回って事故地点へと車を走らせた。RA271は、コースの土手に貼り付くように止まっていた。バンプした箇所で車体が浮き、操縦不能となってコースから滑り出たのである。左のサスペンションが前後とも折れ、車体は大破していた。無惨な姿になったRA271の横に、バックナムがぽつんと座っていた。中村が近づくと、バックナムは立ち上がり、打ちひしがれた表情で言った。
「すみません。車をこわしてしまいました」
「何を言うんだ。きみは最高の仕事をしてくれた」
 中村は正直なところ完走するとは思っていなかった。ここまでできれば十分だ。予選走行もまともにできなかったのに、十二周も走り、順位はトップ・テンに食い込んだのである。
「それに、ストレートを走るきみは誰よりも速かった。フェラーリのサーティースより、あのジム・クラークよりもな」
 それは中村の心からのことばであった。ぶっつけ本番で、これだけの成果が出せた。車の熟成を進めれば、おれたちはとんでもないことを成し遂げてしまうかもしれない。そう思えたことが、ドイツ・グランプリで得た最高の収穫だ、と中村は思った。
 勝負は、次のイタリア・グランプリだ。中村は期待に胸をふくらませた。
 しかし、宗一郎はそうは思っていなかった。


2001年3月12日:本田宗一郎物語(第82回) につづく



参考文献:「本田宗一郎物語」宝友出版社、その他

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