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2001年3月15日:本田宗一郎物語(第85回)

  本田宗一郎物語(第85回)

「このエンジンをF2で使わせてくれよ」
 ジャック・ブラハムがジョークを飛ばしている。ほとんどの者がそう思い、同調するように笑いをもらした。ワールド・チャンピオンに輝いた経験もあるF1ドライバーがF2に言及したためではない。当時、F1とF2の開催日程は微妙にずらして組まれており、両方のグランプリにエントリーするレーサーも少なくなかった。ブラバム自身、チーム・オーナー兼ドライバーとして、両方のレースに出場していたのだ。
 市販車用のエンジンをF2に? まさか。それが、おもねるような笑いの根拠であった。だが、それとは逆に身をひきしめ、目を輝かせた者が二人だけいた。察したように、ジャック・ブラバムが訊いた。
「このエンジンの設計者はいるかな」
 はい、と歩み出たのは、久米是志である。その後方で、川本信彦という名の若いエンジニアも小さく前に出た。

 宗一郎がマン島のT・Tレース挑戦をめざしてオリジナル・レーサーの開発に乗り出した頃、入社ほやほやだった久米の姿をご記憶だろうか。その後、オートバイのグランプリ・エンジンの設計チームを経て、久米は四輪の開発チームに移っていた。
 久米が、ブラバムのことばをまっすぐに受け入れた理由は二つあった。ひとつは、自身の設計した4バルブ・エンジンに対して自負を抱いていたこと。もうひとつは、久米の胸に、レースの現場に復帰したいという強い願望が渦を巻いていたためである。
 事実、4バルブのエンジンを自動車用に実用化したのはホンダが初めてであった。ブラバムの目がそこにきちんと届いていることに、久米は心を動かされてもいた。
 レースへの情熱は、かつてオートバイで世界中を転戦していた時期、体に刻み込まれてしまったものだった。研究所でF1プロジェクト・チームの熱にうるんだような狂騒を横目にしながら、久米は自分のなかの満たされぬものを日々見つめつづけていたのである。
「ただし無条件でF2にホンダを載せるわけにはいかない。開幕前に、コスワースのエンジンと比較させてもらうことにするよ」
 ジャック・ブラバムはそう言い残して研究所をあとにした。
「おい、やれるな。これでおれたちもレースがやれるんだぞ」
 久米は、川本の肩をたたきながら、熱っぽい口調で語りかけた。1000ccエンジンの設計をサポートしてきた川本が、T・Tレースの記録映画に感動してホンダに入社した経緯を久米はよく知り、それに仲間意識に似た共感を覚えてもいたのだ。
「久米さん、やりましょう。絶対に僕をチームに引き抜いてくださいよ」
「当たり前だろう。あとは社長のOKを取り付けるだけだ」
 取り付けるも何もなく、宗一郎が首を横に振らないことはわかっていた。だが久米は、ホンダの埼玉製作所の所長になっていた河島喜好に、まずは話を持って行った。それは相談でも報告でもなかった。今度は四輪でレースに参加できる喜びを、大先輩にあたる河島にとにかく伝えたかったのである。河島は話を聞き、微苦笑するとこう言った。
「バイクにF1、そこにF2か。おやじは喜ぶだろうけど、これでホンダはレース一色だな」
 事実だった。レースの熱狂に染まってゆく研究所で、宗一郎は誰よりも熱くなっていた。四輪車の市販を始めたばかりの企業が、戦力の大部分をレースに割くのは望ましいことではない。見方によっては、狂気の沙汰でさえあった。しかしそれをつらぬくのが本田宗一郎であり、黙して見守るのがホンダという会社であった。そこには、経営側のトップに立つ藤沢武夫の、大きなまなざしがはたらいてもいた。
「研究所は前衛部隊だ。社長の本拠地であり、うちの元本でもある」
 そんなことば通り、藤沢は研究所を設立する際、ホンダ全体の売り上げの3パーセントをそっくり研究所に回すシステムを作り上げていた。宗一郎を軸に、スタッフのやりたいことをとにかく研究してくれという、大胆とも放埒ともいえるやり方である。何かが生まれるとしたら、そこからしかない。藤沢が、その確信をくずすことはついになかった。

 その研究所は、レースのための研究開発の坩堝(るつぼ)と化していた。オートバイだけで排気量ごとに数チーム、そこにF1プロジェクトが加わり、さらにF2チームが突然出現するという事態は、もはやただごとではなかった。
 なかでも火を噴くように燃えていたのがF1チームであった。彼らには、参戦二年目に対する希望と野心、そして大いなる自信があり、また雪辱を果たす義務が課せられてもいた。 責任者は中村であったが、その中村が突如チームから外されることになった。


2001年3月16日:本田宗一郎物語(第86回) につづく


参考文献:「本田宗一郎物語」宝友出版社、その他


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