Ws Home Page (今日の連載小説) 2001年3月24日:本田宗一郎物語(第94回) ホンダは、公式予選の始まる3日前から 早朝6時より9時にRA272を走りこませた。そこで、標高2000メートルのメキシコの大地にあった燃料噴射系の調整に専念した。この貸切のテスト期間に、2台のRA271は、コースレコードを破っていたのである。絶対に勝つという信念は、徐々に確信へとなっていった。そしてそれはゆとりを生んだ。中村は、二人のドライバーに、本番中は、エンジンを、許容回転数を1千回転下回る1万1千回転までしか回さないように指示した。 公式予選日に、ギンサーは、ジム・クラークが持っていたコースレコードを1秒程上回った。中村はそこで、ギンサーを車から降ろし、車はガレージの中に入れさせた。その後、ロータスのジム・クラークとブラバムのダン・ガーニーが、ギンサーのタイムを上回った。ギンサーが、もう一度走れば、ポール・ポジションポジソが獲れるから、と言ったが、中村はそれを制止した。ホンダのマシンの方が絶対に速いのだから、今は無理をすることはない、とギンサーに言い聞かせた。 バックナムは、自分の車で予選4位のタイムを出していたが、ギンサーは、バックナムの車を欲しがり、その車で3位を出したので、バックナムは別のマシーンで再度タイムを出さなければいけなかった。結果として10位であった。中村は、チャンスはある、慌てるなとバックナムを諭した。 メキシコの大統領が見守る中、1500cc最後のF1のスタートが切って落とされた。 ポール・ポジションのクラークがスタートとともに飛び出したが、第1コーナーに先に入ったのはギンサーだった。 そこから独走態勢となった。 7周目には、2位に200メートルの差をつけた。 中村はサインボードに無理をしないいようにと再三注意を促した。 ギンサーも、1千回転の余力をもって落ち着いて走った。 それでも、直線では他を圧倒するスピードをアピールし、平均ラップタイムは去年のコースレコードと同等であった。 56周目、ギンサーは、1分56秒フラットのコース・レコードを樹立し、2位のダン・ガーニーに350メートルの差を付けた。 57周目、ガーニーは、離されまいとペースを上げ、1分55秒48でコースレコードを書き換えた。 中村は、サインボードで、慌てるな。絶対にペースを上げるな、と指示した。 周回遅れになったブラバムはチームメイトの援護のために、ギンサーにブロックを仕掛けた。 2位との差は縮まった。 中村は、再度サインボードで支持した。慌てるな! ギンサーは、ブロックしているブラバムを無理せずかわせるところまで待ってから抜いた。 2位との差は150メートルになっていた。 中村は、サインを送った、今のままのペースでを守れ。 ギンサーは、約束の1万1千回以上エンジンを回さなかった。 残り1周となった。中村は、後1周、このままいってくれ、と祈った。 スタッフ全員が、ピット前を通り過ぎていくギンサーを見送った。150メートル後ろにガーニーがいた。 第一コーナーに消えていくガーニーを見送ったスタッフ達は、最終コーナーへ視線を移した。まだ来るはずのないRA272を待った。時計を見ては、最終コーナーを見た。 「何も起こってくれるな!」 誰も声は出さなかったが、誰もが叫んていた。 最終コーナーに最初に姿をあらわしたのは、RA272であった。 スタッフのの目は滲んだ。もう少しだ。もう少し。 チェッカーフラグをくぐるRA272をはっきり見たものは誰もいなかった。 皆の目が潤んでいた。そして誰しもが、わけのわからない声を発していた。 ギンサーは、RA272は、65周、一度も抜かれることなく、チェッカー・フラグを受けたのである。2位との差は3秒弱であった。バックナムも5位に入り、2台完走、2台入賞となった。 ウイニング・ランを終えたギンサーがピット前に戻ってくると、中村もクルーも、我を忘れてコースに飛び出した。五位入賞のバックナムも車から降りて駆けてきた。誰かが何かを叫んでいたが、それが自分の声であることに誰も気づいていなかった。コースに観衆が押し寄せると、さらに何が何なのかわからなくなった。肩を叩き、抱き合い、互いをもみくちゃにして、ホンダF1のスタッフは思いきり泣いた。次々に祝福を送ってくれる関係者のなかには、あのコーリン・チャップマンの顔もあった。 「おめでとう! ナカムラ、そしてホンダ!」 ごつごつとした手が、中村の手をがっちりとつかんだ。暖かい手だった。中村の目に、初めて涙が噴き出してきた。喜びや、安堵や、屈辱や、苦しい記憶や、いっさいの感情がとけこんだ涙だった。だが苦さはなく、どこまでも甘い涙だった。 ホンダRA272のメキシコ・グランプリ優勝は、事件である、とある本には書かれている。 ●5年間続いた1500ccによるF1最後の優勝であること ●ホンダF1の初優勝であること ●8年のキャリアを持つ35歳のドライバーの初優勝であること ●グッドイヤー(アメリカのタイヤメーカーとしても)初の優勝であること ●60年の伝統を持つグランプリで、東洋の、日本のマシン、シャーシの初優勝であること ホンダの初優勝は、1964年のドイツ・グランプリから、わずか1年半、11戦目で達成された。これは当時としても、そして現在においても、驚異的なスピードなのである。 他に類を見ない独創的なRA272。変速ギアと一体型1500cc12気筒48バルブ横置きエンジン。そのマシンが本領を発揮したと時、すでに活躍の場を失ったという悲劇のマシンである。 しかし、このマシンは、35年たった今でも、きちんとメンテナンスされ、茂木サーキットでその勇壮をホンダ・ミュージックとともに、ファンに披露している。それがなによりの救いかもしれない。 2001年3月25日:本田宗一郎物語(第95回) につづく 参考文献:「本田宗一郎物語」宝友出版社、「HONDA F1 1964−1968」ニ玄社、その他 Back Home Mail to : Wataru Shoji |