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2001年3月28日:本田宗一郎物語(第98回)

  本田宗一郎物語(第98回)

 ここでホンダN360にふれなければならない。

 N360の母体となった試作車のコードナンバーは、XA170であった。
 XA170の仕様は次の通りであった。
 排気量360cc V型4気筒強制空冷エンジン搭載
 駆動方式FF(フロントエンジン、フロントドライブ)
 四輪ダブルウイッシュボーン独立懸架
 セミ・モノコック

 XA170の開発にあたっては、二交代勤務制をしき、夜間は夜間走行のテスト。昼間は、その結果を参考に新しい部品の開発、というスケジュールをとった。また、自動車製造のノウハウを収集するために、文献はもとより、自動車解体業者を回って実際に解体作業の中から部品の取り付け方、車体の組み上げ方を勉強した。
 当時の責任者杉浦英男の、「設計はキャビンからしろ」、という指導のもと、とまずは居住空間を確保することから開発が進められた。当時としては一般的ではなかったFF(フロントエンジン・フロントドライブ)方式は、ごく当たり前のこととして採用された。
 N360の開発に当たっては、開発指示書などはなく、責任者となる中島と宗一郎が話し合って決められた。それは次のようなものであった。
 ●誰でもが買える値段であること
 ●運転しやすいこと
 ●ゆとりのたもに、動力性能が十分であること
 ●安全に高速道路が走れること
 ●長距離を走っても大丈夫なスペースを確保すること
 これ以外に宗一郎が求めたことは、「かっこよくなきゃ駄目だ!」である。

 クレイモデル(金型を取るためのもの)を見学にきた宗一郎が、
 「ちょっと、ここはおかしいーぞ」
と言うがはやいか、近くにあったカンナを取り上げ、自ら削り始めたのである。スタッフは青い顔をして見守る中、
 「どんなもんだい、よくなったろ。これでよし」
 この宗一郎の一削りのため、金型は、再度作り直さなければならなくなり、800万円がかかったのである。

 N360は、1966年10月21日に記者の前で発表された。価格は未発表であった。
 10月26日から、第13回東京モーターショーが開催された。そこでの目玉は二つあった。一つは、トヨタカローラであり、もう一つはホンダN360であった。そのため、モーターショーは開催史上初の150万人突破となった。
 N360の価格は、そこでも伏せられ、12月15日に発表するとだけアナウンスされたのである。
 1966年12月15日の全国の朝刊の全面広告で、N360の価格が発表になった。それはセンセーショナルなものとなった。それまで軽を代表するるスバル360より、遥かに高性能でありながら、スバルの37万円に対して、N360は31万3千円であったからである。
 N360の4サイクル空冷2気筒OHCエンジン、354cc・31馬力<8500回転時>であった(その後、36馬力の仕様も出現する)に対し、スバル360は、2サイクル空冷2気筒356cc20馬力<5000回転時>(後に25馬力となる)であった。
 最高速は、スバルの100キロに対し115キロであった。
 また、宗一郎の頑丈に作れにより、車重は、スバルの410キロに対し475キロであった。

 発売日は、当初1967年2月と発表されたが、3月6日となった。それまで、軽自動車の1ヶ月の販売台数は、全メーカー合わせて、1万台に満たなかったが、同3月から、1万5千台となり軽自動車業界全体が活性化されたのである。5月には、N360の販売台数は5千570台となり、トップとなった。そして、1970年9月には、生産開始から43ヶ月で、100万台達成の記録を作ったのである。

 しかし、このN360にも悲劇が待っていたのである。


2001年3月29日:本田宗一郎物語(第99回) につづく


参考文献:「本田宗一郎物語」宝友出版社、その他

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