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2001年3月30日:本田宗一郎物語(第100回)

 ジョン・サーティーズ。かつて二輪のグランプリチャンピオンであり、F1ではフェラーリのドライバーの経験もあり、そしてグランプリチャンピオンでもあった。現在に至っても、二輪と四輪の両方を征した人は彼をおいていない。
 そのサーティーズが中村に言った。
 「ホンダのF1に乗りたいのだが」
 チャンピオンの申し出に、中村は狼狽した
 「うちは、貧乏所帯だから、貴兄と契約することはできない……、と思う」
 「いや、金は、自分でなんとかする。スポンサーがいるからね」
 サーティーズの示した条件とは、中村がチーム監督になることだったと、中村氏は書いている。
 中村は、これで優勝が身近なものになる、と確信した。宗一郎には反対されるかもしれないが、チャンスだと思った。
 1966年から1967年にかけて宗一郎の頭には、空冷エンジンのことしかなかった。画期的なエンジンができることを期待していた。F1でも空冷エンジンをデビューさせる気でいた。
 「来年のドライバーのことですが、社長」
 「来年か再来年には、空冷のF1を出すぞ」
中村は唖然とした。宗一郎は、お構いなしに続けた。
 「すごいだろ。勝てると思うか」
 「とにかく、F1はドライバー次第です。いいドライバーが雇えれば」
 「そんな予算はない。誰が乗っても勝てるマシンを作ればいいんだ」
 「ところが、タダでいいから、ホンダのF1に乗りたいという、有名なドライバーがいるんです。彼はホンダのエンジンに惚れていて……」
 「誰だ」
 「もと二輪のグランプリチャンピオンでF1でもチャンピオンをとったジョン・サーティーズです」
 「それは、すごいじゃないか。彼がホンダのエンジンに惚れているって本当か」
 「ええ、彼は二輪時代に、ホンダ相手に苦戦した経験がありますから」
 「そうか、いい話じゃないか。ホンダに惚れてくれているってか」
 「条件があるのですが」
 「なんだ?」
 「私、中村が監督でということで」
 「ホンダに惚れてくれているドライバーに乗ってもらえることはいいことだ。好きにしろ」

 こうして、ホンダF1チームの実態は、中村F1チームとなっていく軌道が引かれたのであった。

 宗一郎の頭の中には、勝つことよりも、画期的なマシンをデビューさせ、山積みの課題を一つずつ克服していく過程を見てもらいたいという願望があったが、そのことは最後まで、理解されなかった。
 F2で、連戦連勝するエンジンを久米が開発し本戦に望むとき、宗一郎が電話の向こうで、
「壊れるまで回してみろ。限界まで回すんだ」
と、言ったことがある。その時、久米は、なんで、レース中にエンジンを壊すまで回す必要があるんだ。俺がいいエンジンを作ったのをおやじは嫉妬しているんだ、と思った。
 久米が設計したエンジンだったが、一つだけ宗一郎のアイディアが盛り込まれていた。エンジンが高回転で回ると、バルブがそれに追随できなくなる。バネを強くすれば効率は悪くなるし、開ける側、閉じる側、双方をカムで行う方法もあったが、熱によるカムの膨張の逃げ場がなくうまくいかないことが予想された。そこで、宗一郎は、トーションバーという捩れバネをそこに使う方法を提案したのであった。
 宗一郎にとっては、レースに勝つことよりも、トーションバーを使ったバルブシステムの限界がどの辺にあるのか知ることの方が重要であったのだが、言葉足らずの宗一郎を、あるいは天才である宗一郎を理解する者はいなかった。レースに携わる者で、勝つことより優先されるものがあることを知っている者は少ない。

 1977年第10戦で、ルノーは、F1史上初のターボエンジンで参戦する。当時は3000ccエンジンが全盛時代で、ターボ・エンジンは1500cc以下と制限されている上、アクセルに対するパワーの応答性が悪いために、絶対に勝てない、と言われていたのである。
 ルノーのターボ・エンジンによる参戦初年度は、全てリタイヤか予選落ちであった。第2年度1978年は、1回の入賞(4位)と、9回のリタイヤ、と4ラップ以上の周回遅れであった。3年目1979年もリタイヤ、予選落ち、周回遅れを喫したものの、第8戦母国フランスグランプリで、F1史上初のターボエンジンでの優勝を勝ち取るのである。32試合目のことであった。
 1981年からは、フェラーリとトールマンがターボ・エンジンを採用し、1982年からは、5チームがターボ・エンジンを採用することになる。そして、1983年、ブラバム・BMWのターボ・エンジンを操るネルソン・ピケが、ターボ・エンジン搭載車で、初ワールドチャンピオンになる。
 その翌年から、ポルシェ・ターボ・エンジンが3年間連続してチャンピオン・ドライバーを送り出し、その次の2年間は、ホンダ・ターボ・エンジンがチャンピオン・ドライバーを支えるものの、圧倒的な強さであったため、翌年からターボ禁止となってしまうのである。
 つまり、ターボ・エンジンをF1界に送り出しながら、ルノー・ターボエンジンは、メーカー・チャンピオンにも、あるいはチャンピオン・ドライバーを送り出すエンジンにもなれなかったのである。しかし、ルノーが得たものは、それ以上のもの、パイオニアとしての栄誉であった。
 宗一郎が夢見て実現しなかったF1参戦のかたちとは、まさにルノーが示してくれ姿勢であったことを、今でも知る人は少ない。

 空冷F1の夢は宗一郎の中で大きくなっっていったが、それは、若い技術者との溝をも大きくしていったのだった。

参考資料:F1ターボ時代について


2001年3月31日:本田宗一郎物語(第101回) につづく


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