Ws Home Page (今日の連載小説)


2001年4月6日:本田宗一郎物語(第107回)

 7月2日のRA302のテスト走行の記事があがっていた。
 記事のヘッドに載せられたRA302の写真に添えて、
 「サスペンション設定前にもかかわれず走りっぷりは安定しており、サーティーズがピットに向かって微笑んでいたのは好調の印」
と書かれたいた。
 また、もとグランプリ・ドライバーの記事では、
 「RA302E空冷エンジンは、6周走った後でも、シリンダー・ヘッド周りが100度Cにとどまっていた」
とあった。
 思惑通り、F1関係者や報道陣には、注目されていた。誰しもが、グランプリでどんな走りをするのか、期待し興味を持っていたのである。

 公式予選の前日、ホンダ・レーシング一行はフランスのルーアン・サーキットに着いた。
 彼らを待ち受けていたのは、意外なニュースだった。
 中村は、そのニュースを聞いて顔を真っ赤にして怒った。
 空冷F1、RA302がエントリーされていたのである。ドライバーには、ジョー・シュレッシャーという彼らの知らないフランス人が登録されていた。
 久米は、おやじを甘く見ていた自分をののしった。
 おやじにはちゃんとした報告はしていない。
 まずは、俺はきちんとした機械をつくっていない。今のRA302が全く駄目だ、ということを俺はおやじに伝えることができなかった。
 次に、サーティーズが去年の予選タイムの5秒落ちを、たったの2周目で出した、といういい報告をしてしまったことだ。おやじが期待するのも当然だ。
 そして、フランス・グランプリに出さない理由を、エントリーが一人しかされていなくて、サーティーズがRA301に乗りたがっているからだ、としたことだ。
 立場が逆なら、東京からエントリーをして、サーティーズ以外のドライバーを探せば、フランス・グランプリにRA302が出せる、と俺だって思うだろう。

 調べてみると、フランス・ホンダの支配人が、東京からの依頼を受けて、フランス人ドライバーを起用するなら、という条件でエントリーをしたのもだ、ということがわかった。シュレッサーは、スポーツカーのドライバーでF1には、一回しか乗ったことがない、という。

 中村と久米は、シュレッサーに厳重に忠告した。絶対にエンジンを回すな。回すとオイルを吹き出すから。次に絶対にスピードを出すな。まだ調整中のマシンだから、と。
 シュレッサ−は、
「わかった、必ず守るよ。俺は、F1ーに乗ってこのコースを回れるだけでいいんだ」
と答えた。

 シュレッサーはその忠告を守って予選を走ったが、3回もスピンした。タイムは、2分4秒5で、17台中の16位であった。最下位のエルフォード(クーパーBRM−V12)より1秒速いタイム、ポールシッターのリント(ブラバム・レプコ)より8秒4遅いタイムだった。
 サーティーズは、水冷RA301で1分58秒2で予選7位だった。7位ではあったが、よい感触をつかんだようで、サーティーズは上機嫌だった。

 こうして1968年7月6日が暮れていった。


2001年4月7日:本田宗一郎物語(第108回) につづく


参考文献:「本田宗一郎物語」宝友出版社、「HONDA F1 1964−1968」ニ玄社、「F1地上の夢」朝日い文庫


Back
Home



Mail to : Wataru Shoji