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2001年4月14日:本田宗一郎物語(第115回)

 「株主が文句を言ってきたら、私がやらせたんだといって責任をとる」
 リコールの決断を下した藤沢は、重役会議でそう述べた。
「ただし、株主総会ではクビを覚悟でこれだけは説明する。絶対にわかってもらう。ホンダの良心に賭けて、私たちはいい製品を残しておきたかったんだということをな」
 本田宗一郎の良心に賭けて、と発言したいところだった。
 大ヒットとなったN360である。以前から多少なりとも苦情が寄せられてはいたが、その内容は、雨もり、オイルもれ、エンジンのノイズなど、いずれも深刻なものではなかった。これは、ホンダが他社のコピーをせず、一からすべてを作り上げた結果でもある。しかし、そうした小さい不信感をこそ、今は一掃しておく必要がある。藤沢はそう判断したのである。また、何よりも、リコールの対象となる車がホンダの工場から出ていたことに対して、宗一郎が胸を痛めていることを藤沢は知っていた。
 「どうせやるなら、徹底的にやらないと意味がない。全社を挙げて当たることにする」
 こうと決めると、藤沢の動きは早い。それから数日も経ないうちに、ホンダは全国の主要新聞に二日間にわたって緊急措置広告を掲載し、顧客にダイレクトメールを急送すると、全国二百四カ所のホンダSF(サービスファクトリー)に現場技術者を送り込んだ。その数、約七百名。いずれも、狭山工場でN360の生産にあたっていたプロ中のプロである。
 彼らは土日を返上し、徹夜に近い作業を連日こなして、自らが手がけた車の修理と回収に奔走した。間に合わない部品は、工場の生産ラインを止めて製作し、各地に次々に分配する。こうした努力が実り、作業は約一週間で完了した。かかった費用も約二十八億円と、見積りを下回る金額に抑えられた。技術と人員の集中投下が、最高の能率を生み出した結果であった。
 ホンダに関わるすべての人間が、ほっと胸を撫で下ろした。その瞬間を狙いすましたように、ぎらりと瞬くものがあった。ある大新聞による欠陥車キャンペーンという刃である。剃刀の鋭さとナタの重さを持つ刃は、ホンダの頭上めがけて、まっすぐに振り下ろされた。

『N360は、スピードが80kmに達すると急にフラつく』
『N360のステアリングは切れすぎ、場合によってはる事故に結びつく』
 キャンペーンに取り上げられたのは、主にこの二点であった。そしてそれは、N360=欠陥車というイメージを消費者に植え付けるには、十分すぎる二点でもあった。事実か否かの検証もおこなわれていない報道に、他の新聞やテレビまでもが便乗した。N360関連のニュースが報じられない日はないといってよかった。こうして、1967年2月の発売以来、軽自動車市場で圧倒的なシェアと人気を誇っていたN360の売り上げは、1969年の後半に向けて劇的に落ち込んでゆくのである。

 本格的な四輪メーカーへの飛躍を担うはずだったホンダ1300の不振。そして稼ぎ頭だったN360の欠陥車騒動。ホンダ社員の当たり所のない不満の矛先は、「空冷エンジン」に、そしてそれを主張し続ける宗一郎に向けられたのだった。
 研究所のスタッフ約六十人が軽井沢で定期的に開いていた研究員集会に、藤沢が同席を依頼されたのは7月。その日のテーマは、「なぜホンダ1300は売れないか」であった。

 さまざまな意見が出され、話題は大気汚染対策に流れていった。アメリカ連邦政府は1960年代半ばに大気清浄法、自動車汚染防止法を相次いで制定し、これを受けて日本でも、排気ガスを規制しようとする動きが出始めていた。彼らの結論は、規制に対応し、排ガスをよりクリーンにするためには、水冷エンジンの方が圧倒的に有利である、というものだった。
 集会の終わり際、研究所長の杉浦英男は、藤沢に向かってこう言った。
「私たちは本田社長に、空冷では駄目ですと何度も申し上げ、そのたびにはね返されています。副社長は社長のおっしゃることを信じていらっしゃるのかもしれません。でも、現場の若い連中はこうした悩みを持っているんです」
 藤沢は黙って聞いていたが、心のなかで、
「見え透いたことを言うな、お前らは、よってたかって社長に空冷をあきらめさせる口実を考えているだけじゃないか。それで技術者か。どんなことでも、困難な課題を克服するということを社長から学んだ技術者なのか」
と呟いた。
「いずれ、こういうことになるだろうとは思っていたし、自分らで社長を説得できないから俺を呼ぶなんて全く駄目な連中だ。これでは社長が可愛そうだ」
 杉浦が去った後藤沢は目頭を押えた。
「社長。少なくとも俺だけは社長と心中する覚悟でいるからな」

 後年にいわゆる熱海会談の布石は、宗一郎不在のなか、こうして敷かれたのである。


2001年4月15日:本田宗一郎物語(第116回) につづく


参考文献:「本田宗一郎物語」宝友出版社、その他

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