Ws Home Page (今日の連載小説)


2001年4月15日:本田宗一郎物語(第116回)

 1969年、盛夏。
 軽井沢での集会から約ひと月後、藤沢と杉浦は、熱海の旅館の一室で再び顔を合わせた。杉浦の傍らには、じっとかしこまり、緊張に表情を固くした久米の姿がある。頑固そうなその顔に向かって、藤沢はゆっくりと口を開いた。
「今日はなんだ?」
 身を乗り出し、息急ききって久米は応えた。
「副社長、我々は今後、空冷を捨て、水冷を選ばねばなりません。それしかホンダが生きていく道はありません」
「……何故だ?」
久米が答えた。
「空冷では排ガス対策ができないからです」
「私は技術のことはわからん。では、空冷をやっているフォルクスワーゲンやポルシェはつぶれるんだな」
「いえ、あの、空冷ではやるのは難しいということです」
「では、うちの技術はフォルクスワーゲンやポルシェより劣るんだな?」
「そ、そんなことはありません」
「私は技術者じゃないが、君の方がわたしより頭が悪いようだ。君の言っていることは矛盾している」
「あの、つまり、この困難な時期に、水冷を選べば簡単に解決でこることを、わざわざ空冷を選択して、より難しくすることはない、という意味で……」
「君達が手にしている技術は、社長が常に困難な課題を自ら課して、それを克服することによって蓄積してきたもの上にあることは、わかっているか」
「……」
「君達は、安易な方向を選択しようとしている」
「いえ、そうではありません。この非常時に、何のためにわざわざ手間と時間がかかる道を選ばなくてはならないのでしょうか?われわれにはそれが理解できません。とにかく、ホンダには時間がないのです。一刻も早く方針を決める必要があると思います」
「君は私の言っている意味がわかっていないようだし、それでは社長を説得することはできないだろう」
「しかし……」
「要するに、君達の本心は、本田宗一郎抜きでやりたいということだろう」
「……」
「ホンダには時間がない、というが君らのいうホンダは、本田宗一郎の会社ではなく、君らが所属するホンダということだろう」
「……」
「私には、君達のことは理解できないが、一つだけわかることがある。君達がすでに本田宗一郎を尊敬していないということだ」
「そ、そんなことは……」
「建前を言うのはやめろ。君達がしていることはそういうことだ」
「……」
「君らのホンダにとって、君らは必要なら、本田宗一郎は不必要だろう」
「……」
「よくわかった。では今からすぐに、二人で社長のところに行け。私からも電話しておく」

 重苦しいドライブになった。熱海から、研究所のある和光までの道を、二人はほとんど口をきかずに車を走らせた。
 久米と杉浦を乗せた車が研究所に着いた。まさかこうなるとは思わなかった。あのおやじの前に立ち、自分達の主張を口にすることができるだろうか。しかし、そうするしかない。二人は震える足を踏みしめて、宗一郎の前に立った。
「し、社長。副社長と話してきました」
「知ってる。電話があった」
 むっとした顔で宗一郎が応えた。二人は唾を飲み込んだ。意を決して久米が口を開いた。
「空冷ではなく、水冷エンジンの開発をおこないたいと思います」
「好きにしろ」
「は?」
「好きにしろ、て言ったんだ。河島常務と相談しながらやれ」
「は、はい」
「なんで副社長のところに行く前に、俺のところへ言いに来ないんだ。残念だな」
 独り言のようにいい、また黙り込んだ。久米と杉浦はそれ以上何も言えず、何となく頭を下げると、社長室を辞した。二人とも、シャツが濡れるほど背中に汗をかいていた。


 宗一郎のところに藤沢から電話があった。杉浦・久米が来る前のことである。
「社長、うすうす感づいていることとは思うが、若い連中の……」
「ああ、わかっている。いよいよまずいか」
「覚悟して欲しいと思う。俺と河島と3人で出直すか、それとも、若い連中の好きなようにさせるかだ」
「そういう段階か?」
「そうだ。俺も河島も覚悟はできている。社長の判断についていく。どうするか決めてくれ」
「そうか……」
「……」
「河島に伝えてくれ。引き継ぐ準備をしておいてくれ、とな」
「いいんだな」
「ああ」


2001年4月17日:本田宗一郎物語(第117回) につづく



参考文献:「本田宗一郎物語」宝友出版社、その他

Back
Home



Mail to : Wataru Shoji