Ws Home Page (今日の連載小説)


2001年4月21日:本田宗一郎物語(第121回)

 1970年4月、株主総会を経て、本田・藤沢体制から、河島・川島・西田・白井の四専務による集団指導体制への移行が正式に発表された。これ以降、実質的にホンダの舵取りは、この四専務によって行われていた。
 宗一郎は、毎日本田技術研究所に出所していた。
 しかし研究所内部から、世代交代を訴える従業員も出てきた。
 その声を誰が社長に伝えるか、ということになった。河島は最後まで反対した。
 「どうしておやじさんが社長を辞めなければならないんだ」
 「若い技術者が……」
 「どうせ久米達が、おやじさんが口を出すのをうるさがっているのだろ」
 「しかし、彼らの協力なしにはやっていけないのは事実です……」
 河島は迷ったが、
 「おやじさんが作った会社を世界一にするのも、別の形での孝行じゃないのか」
という言葉に折れた。
 「社長のところには河島さんに行ってもらうのが筋かもしれませんが、本心からおやじさんの研究所社長退任を望んでいない河島さんが行くにはよくありません。本社専務として私が行きます」
 西田はそう言った。

 ホンダの広報資料に次のような記述がある。
======================
 気の重い西田だったが、たまたま技術研究所へ行く用件があり、本田のいる社長室の扉をたたいた。本田は西田の顔を見ると、昼食を共にしようと誘った。西田は、本田と一緒にそばをすすりながら雑談をし、ころ合いを見計らってポツッと本題を切り出した。
 「『もう研究員も、どんどん育っているので、そろそろバトンタッチを考えていただけないでしょうか』と、本田さんに恐る恐る水を向けると、即座に、しかも涙をハンカチで拭いながら『良く言ってくれた』と、おっしゃったんです」
 さらに、気の早い本田は真剣な顔で
 「何なら今日にでも辞めてもいいぞ」
 (中略)
 1971年4月、本田は本田技術研究所の社長を退いた。
 本田が退いた後、西田は悩んだ。本田が冗談交じりに、
 「しばらくの間、朝になって下落合の自宅を出ると、どうしてもウチの会社に向かってしまう。途中まで行って、ああ、おれはもう社長じゃないんだと思って帰って来た」
と言ったからだった。
 本田にとって、"ウチ"とは、まさしく技術研究所のことで、技術研究所がすべてだったのである。
======================

 上の記述のように宗一郎は1971年4月に本田技術研究所の社長は退いたが、本田技研工業の社長ではあった。しかし実質的には、四専務による舵取りが行われていたのである。

 1973年3月、藤沢副社長は西田専務に
「おれは今期限りで辞めるよ。本田社長に、そう伝えてくれ」
と言った。宗一郎は中国に出張中だった。
 宗一郎が帰国する日、西田は羽田に行った。宗一郎を出迎えて、藤沢の伝言を伝えた。
 宗一郎は、いくらかの間をおいて言った。
「俺は藤沢武夫あっての社長だ。副社長がやめるなら、俺も一緒。辞めるよ」

 西田から本田の意向を聞いた藤沢は、後悔した。
「すまん、社長。長い付き合いだったが、最後に最大のミスをしてしまった。俺の意志は、直接俺の言葉で伝えるべきだった」
と、藤沢は心の中で言った。

 その後ある会合で宗一郎は藤沢と顔を合わせた。
 宗一郎は、藤沢に
 「こっちにこいよ」
と目で伝えた。
 藤沢が近づいてきた。
 宗一郎が言った。
 「まあまあだったな」
 藤沢が答えた。
 「そう、まあまあさ」
 「幸せだったな」
 「本当に幸せでした。心からお礼を言います」
 「俺も礼を言うよ。良い人生だったな」

 1973年10月、宗一郎と藤沢は退任した。創立25年目だった。
 宗一郎65歳、藤沢61歳であった。
 二代目社長は、河島喜好45歳だった。

 河島が社長就任の挨拶をしているとき、宗一郎は箱根越えの雨の中での会話を思いだしていた。
 「のんきそうな顔してるんじゃない! この野郎、心配させやがって……」
 「このエンジン、想像以上です。平均70キロは出ていたと思いますが、びくともしませんでした」

 そして、河島と初めて会った日のこと。
 「学問や知識というのは、社会に役立てて初めて意味を持つと思うんです。本田さんの作っているバタバタ、失礼しましたモーターバイクは、まさにその結晶です」
 「ああ、バタバタという名の方が似合っているな。だから気にするな」
 「交通事情がひどい今の世の中で、あれがどれだけみんなの役に立っているか。技術とはなにか、商売とはなにか、僕は考えさせられました。僕も自分の知識を生かしたいのです。どうか、弟子にしてください。お願いします!」
 「うれしい話だがな、ご覧の通りのオンボロ工場だ。給料も満足に払えるかどうかわからないぞ」
 「けっこうです。自分の食べ物ぐらい自分で調達できます。僕にはわかるんです。本田技術研究所は、日本一の会社になるのがです。僕にもチャンスをください」
 「うれしいこといってくれるね。名前はなんてんだい」
 「河島喜好です」

 「よくついてきてくれた。お前になら安心して任せられるぞ」
 宗一郎は呟いた。


2001年4月22日:本田宗一郎物語(第122回) につづく


参考文献:「本田宗一郎物語」宝友出版社、ホンダ広報資料

Back
Home



Mail to : Wataru Shoji