Ws Home Page (今日の連載小説) 2001年4月23日:本田宗一郎物語(第123回) 1976年末、河島喜好社長から、「二輪世界グランプリ復帰宣言」が発表された。 埼玉県朝霞市にある本田技術研究所内に、New Racing (NR) というブロックが設立された。リーダーは、かつて世界を制覇した二輪のエンジンを設計したことがあり、また、F1エンジンRA273Eを開発した入交昭一郎であった。NRのスタッフは、入交と福井威夫、柳瀬弘一と数人の若手だけだった。 ホンダが二輪グランプリを撤退したのは、1968年からであった。1967年までのホンダエンジンは、全て4サイクルであり、マルチ・シリンダー、多段変速ギアの組み合わせだった。たとえば、 1967年:RC174(350ccクラス)、空冷4サイクル6気筒DOHC4バルブギア駆動、297cc、7段変速 1966年:RC166(250ccクラス)、空冷4サイクル6気筒DOHC4バルブギア駆動、249cc、7段変速 1966年:RC149(125ccクラス)、空冷4サイクル5気筒DOHC4バルブギア駆動、124cc、8段変速 1965年:RC115(50ccクラス)、空冷4サイクル2気筒DOHC4バルブギア駆動、49.8cc、9段変速 ホンダが撤退した後、マシンのレギュレーションが変更され、気筒数は4以内、変速ギアは6段以内となっていた。この条件下、2サイクルのエンジンが主流となっていた。ホンダ参戦前後において、スズキのRGA500と、ヤマハのYZR500がチャンピオンを獲得しているが、いずれも2サイクル・エンジン搭載車である。 河島社長は復帰の宣言はしたものの、内容については入交に任せていた。 入交は、ホンダ1300のエンジンの開発者でもあった。 「あんな経験は二度としたくない」 ホンダ1300を開発していた当時そう思っていた入交であったが、あの3年間の経験が、他社なら10年、あるいは100年分の経験にあたることを、入交は感じ始めていた。そこで、入交は、福井と相談して、有利なというか常識的な2サイクル・エンジンではなく、不利というよりは不可能と思われた4サイクル・エンジンで挑戦することを決意したのだった。困難な課題を克服する経験が参加したエンジニアを育てるだろうことを確信したからである。 4サイクル・エンジンで勝つためにはどのようなエンジンでなければならないか、入交と福井は計算した。その結果、1気筒当たり8バルブ、エンジンの回転数2万2000、130馬力であった。 しかし、1気筒当たり8個のバルブを配置するのは大変だった。どうレイアウトしても、バルブを駆動する部分をシリンダーヘッド内に収めることは不可能だった。プラグの位置の工夫もされたが、不可能だった。 入交は、どうやって8個のバルブを配置するか、寝る時以外は、そのことを考えていた。 車を運転しながらも考えていた。信号で止まった。青になる信号を待ちながら、ハッとすることがあった。入交は信号をもう一度見た。 「そうか、ピストンの断面が円でなければならない、と決めてかかっていたのが問題だったんだ」 入交が見上げた信号は、長円の中に3つのランプが並んでいたのである。 ピストンの形状を円ではなく、長円にすれば8個のバルブを無理なく配置できることに、入交は気付いたのであった。福井に話すと福井は面白がった。楕円ピストン・プロジェクトの誕生である。 まだ宗一郎が陣頭指揮をとっていた頃、入交はレース用ピストンの軽量化を任されたことがあった。入交の設計したピストンは、軽量化のおかげで、順調に周回を重ねていた。が、ピストン・ブローのためリタイアとなった。 原因を見極めようと、宗一郎がピストンをチェックした。 「どいつだ! このピストンを設計したのは!」 「私です」 「古い図面と、新しい図面をもってこい」 図面を確認してから宗一郎は言った。 「バカヤロー! だからピストンが焼きつくんだ。ほら見てみろ。この部分が薄くなっているだろう」 若き入交は自信を持って答えた。 「ピストンの熱は7割方がピストン・リングを通して放熱されます。したがってこの部分を薄くしたのが焼きつきの原因ではありません!」 「ハカヤロー! だから俺は大学出は嫌いなんだ。頭ばかりで考えやがって! てめえは本気で、そんな古いデータが使えると思っているのか? 俺はな、もう何十年もピストンを作っているんだ。だからな、この部分の剛性がどんだけ重要か知ってんだ。お前は何もわかっていない。そんなに頭でばっかり考えやがって! 頭だけで考えているんじゃ、うちでは使えん。なんでこんなピストンを設計する前に自分でチェックしなかったんだ、エッ?」 「……」 「なんで経験者の意見を聞かなかったんだ! どうして現場に出てものを見ないんだ! 大学で習ったことが全てだと思ったら大間違いだぞ! うちの会社じゃそんな奴はいらねえ!」 入交は答えた。 「すみませんでした。でも辞めたくありません」 「それなら、レース関係者に、『私のせいでレースを台無しにしました。すみませんでした』と謝って回れ。俺が後ろからついているからな」 こうして、入交は、スタッフに頭を下げてまわった経験があった。 入交は、この経験談を新人や部下によく話した。そして、楕円ピストンエンジンを搭載したNR500プロジェクトをリードしていった。 開発が進み始めると、宗一郎は毎日NRに電話をした。 「馬力は何馬力出たんだい?」 「車重はどれだけ軽くなったんだい?」 あるとき、スタッフが、 「だいたい……」 と答え始めたとき、宗一郎は怒鳴った。 「なんだと、だいたいだと!」 1979年8月12日、シルバーストーン・サーキットで、NR500はデビューすることになった。宗一郎はシルバーストーンに駆けつけてきた。白いスーツを着てピットの中を見て回った。 予選順位は、片山敬済(1977年350ccクラスのワールドチャンピオンである)が38位、ミック・グラントが41位であった。片山のタイムはケニー・ロバーツのポールタイムから約7秒遅く、250ccクラスのトップタイムよりも遅かった。ミック・グラントは予選落ちであったが、怪我で出場できなかったライダーがいたため、繰り上げ出場となった。 押しがけスタートだったこの時代、エンジンが掛かるまで2ストローク車の2倍は押して走らなければならないといわれている中、予想通り、2台のNR500は、スタートから置いていかれた。 ミック・グラントのNR500は、スタートの失敗にあせり、ウイリー(前輪をあげたままの状態で走る)してしまった。オイルがこぼれた。後輪がそのオイルですべり、第1コーナーに達する前に転倒してしまった。さらに引火し炎上しまったのである。宗一郎が見ている前でのことである。片山のNR500は、数周後電気系のトラブルでリタイアとなった。 空冷エンジンに反対のノロシをあげた久米や川本に組した入交であったが、今では、不可能といわれた4サイクルに挑戦し、勝てずにいた。 「あの時のおやじさんと、俺は今、同じことをしているのか」 入交は自問した。 NR500の不可能への挑戦は3年間続いた。馬力も上がった。4サイクル・エンジン特有の癖を打ち消す技術も確立できた。スピードも引けをとらなくなった。もう少しだったが、NR500での参戦は打ち切られた。表彰台はおろか選手権ポイント1点すら取得できないままの撤退だった。契約していた天才的ライダー、フレディー・スペンサーが勝てるマシンを用意できないのなら、解約すると言ってきたからであった。 かつては宗一郎の不可能に挑戦する無謀さを批判していた連中も、やがて育って、不可能に挑戦するようになっていった一つの例である。これこそが宗一郎がホンダに残していったDNAなのである。 2001年4月24日:本田宗一郎物語(第124回) につづく Back Home Mail to : Wataru Shoji |