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2001年4月25日:本田宗一郎物語(最終回)

1988年
10月 アイルトン・セナがF1ドライバーズチャンピオンを獲得
12月 藤澤武夫最高顧問逝去(30日、享年78歳)

1990年
6月 久米社長退任、川本信彦が社長に就任

1991年
8月 本田宗一郎最高顧問逝去(5日、享年84歳)
9月 本田宗一郎「お礼の会」開催。本社・栃木・浜松・鈴鹿・熊本・埼玉の6会場で延べ6万2000人が来場
10月 F1日本GPでホンダ・マールボロ・マクラーレンチームがコンストラクターズチャンピオン
アイルトン・セナがドライバーズチャンピオンを獲得

1992年
第2期F1撤退を発表

1998年
6月 川本社長退任 吉野浩行が社長に就任

2000年
第3期F1参戦

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 本田宗一郎氏が「偉大で天才的な技術者」であることを知っている人は多い。また、「素晴らしいパートナーやスタッフに恵まれた幸せな人」であることを知っている人も多い。
 しかし、大きな評価と「幸せだった」というご本人の言葉のもとに、「天才であるがゆえに誰よりも孤独だった人」ということを、多くの人は見失っているのではないか。
 空冷・水冷問題では、あいかわらず宗一郎は悪者扱いされているし、退任前後の頃の記述では、「一人の天才が指導力を発揮する時代ではなくなっていた」、というようなものもある。
 このような考え方を、僕達は受け入れない。
 クリンジリーが、会社が規模を大きくしていく過程で、
 (1)コマンドー(テロリスト)
 (2)歩兵(軍隊)
 (3)警察
が、それぞれが十分な役割を果たすことと、上手に引継ぐことが重要であると指摘している< 2001年3月25日:本田宗一郎物語(第95回) >。
 あるいは、クリンジリーの指摘を待たずにも、日本には、
 (1)織田信長
 (2)豊臣秀吉
 (3)徳川家康
の例がある。

 今日、僕達の会社は、上場する。コマンドーの時期が終わろうとしている。
 僕達がコマンドーだったから、その視点で、本田宗一郎氏を描いてみた。
 本田宗一郎物語といいながら、退任後から亡くなられるまでの話が欠落している、と指摘されるかもしれない。しかし、今の僕達は、退任されてからの氏の気持ちを自分のものとして実感することができない。
 将来、夢が叶って、僕達の会社が、「昭和のホンダ、平成のドリームテクノロジーズ」、と言われるようになったとき、そして若い技術者に退任を迫られるようになったときに、この続編を書こうと思う。

 ながいこと、お付き合いくださいまして、ありがとうございました。
 また、資料の収集、原稿の下書きをしてくださった田渕高志氏、田渕大介副社長にお礼をもうしあげます。
 ありがとうございました。

 2001年4月25日、会社上場の日に
 庄司渉


 ● 社員の「本田宗一郎物語」に対する感想集


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