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2001年1月23日:本田宗一郎物語(第34回)

  本田宗一郎物語(第34回)

 宗一郎は何もしなかった。みごとに何もしなかった。昼間は趣味の尺八を吹き、夜になるとぶらりと屋台に足を運んで濁酒(どぶろく)を飲む。それまでの、何日も寝ずに働き、その反動で人並み以上に遊ぶ、そんな人生から抜け出して、うつらうつらと浅い夢のなかにいるような日々であった。
 今はまっとうにモノの作れる社会ではない。宗一郎の経験と直感がそれを教えていた。何か始めるとしたら、面白いのはヤミ屋だろう。どんな物でも作れば売れる。しかしおれはあくまで技術屋だ。宗一郎のプライドというより、それは危機を回避する本能のようなものだった。何もせずにいることで、宗一郎はヤミ屋という赤黒い渦の外側に自分をつなぎとめていたのである。代議士への出馬もすすめられたが、宗一郎は笑って断った。政治も、巻き込まれたら抜けられない渦であることに変わりはなかった。
 月日はゆっくりと流れた。一年が経ち、昭和21(1946)年の秋が来た。

「……飽きたなあ」
 庭で無心に遊ぶ三人のわが子にぼんやりと目を放ち、宗一郎はつぶやくように言った。
「何かおっしゃいました?」
 さちが、茶をいれかえながら宗一郎に問う。よく晴れた朝で、くっきりとした陽ざしが座敷の奥深くまで射し込んでいた。
「飽きたんだよ、遊ぶのにさ。……そろそろ何か始めるかな」
 何か。その何かが、宗一郎には見つからなかった。積年の願望である乗用車作りに着手しようにも、GHQ(連合軍総司令部)の命令で、トラック以外の車は製造が禁止されている。それに、何かを作ろうにも材料を入手する手立てがどこにもないのだった。
 家でじっと考えていても、気持ちがくさくさするばかりだ。
「弁二郎、街に出るぞ。つきあえ」
 買い出しの準備をするさちを横目で見ながら、宗一郎は立ち上がった。

 戦後の混沌とした状態は続いていた。復興が進みつつあったとはいえ、浜松の街も見渡す限り、灰色と茶色に塗りつぶされたような風景が広がっている。その街をぶらぶらと歩いている宗一郎と弁二郎も似たような色彩の服装であった。そうしたなか、ペンシル・ストライプのスーツをきっちりと着こなした気障な風体の男が、化粧の濃い派手な服装の女を連れて自慢げに歩いているのが宗一郎の目についた。
「なんだよ、あいつは」
 不快そうに口をとがらる宗一郎に、弁二郎は笑って応えた。
「兄さん、知らないんですか、"ガチャ万"ですよ」
 機械がガチャンと音をたてれば一万円が転がり込むから、ガチャ万。織機を有して荒稼ぎをしている連中は、羨望と侮蔑と込めてそう呼ばれていた。衣料品がそれほど貴重な時代だったのである。自らの財力を誇るかのように、金のかかった身なりをし、これ見よがしに街を歩くのもガチャ万たちの特徴であった。
「あれがそうか……、気に入らねえな」
「あの格好がですか?」
「そんなのは好きずきさ。何かを独占するっていうのが気に食わないんだ」
 この怒りが、眠っていた宗一郎の闘志を目覚めさせることになった。

 すぐに故郷に戻った宗一郎は、バラックの疎開工場を買い取ると、建物を解体し、浜松市山下町の東海精機跡地に移築。爆撃で破損した機械を修理し、最低の条件を具備した工場を立ち上げると、そこに『本田技術研究所』の看板を掲げたのである。
「ま、お世辞にも立派とはいえないが、無いない尽くしの時代だ。贅沢は言えないからな」
「上等ですよ、兄さん」
 いつに変わらぬ電光石火の早業に、弁二郎は舌を巻いた。ただ、ひとつだけわからないことがある。弁二郎は、疑問をおそるおそる口にした。
「それで……兄さんは何を作るつもりなんですか?」
「ガチャ万退治さ」
 宗一郎の目に、いたずらを始める子供のような光が瞬いた。
「つまり、織機を作ろうと……?」
「そうさ、安くて速い織機をな。そうすればたくさんの人たちがいい生地を安く買える。暴利をむさぼったガチャ万連中は、一巻の終わりってわけだ」
 すでにある製品を模倣しようとする宗一郎ではない。技術屋の意地と負けん気が、ここでも火を噴いた。わずかな日数で構想を練り上げていた宗一郎は、自分の着想を弟に向かって熱っぽく語り聞かせた。
「いいか弁二郎、おれが作ろうとしているのはロータリー式の織機だ」
「ロータリー式、ですか」
「いま使われているシャトル式の機械だと水平往復しかできない。能率が悪すぎるんだ。わかるか?」
「兄さんが言うなら。正直言って僕にはよくわかりませんが、これまでにない斬新な機械になりそうですね」
「ああ。おれの考えたロータリー式は、何よりスピードが速い。それに幅の広い織物も簡単に織れるってわけだ」
「それが本当なら、作るそばから売れること間違いなしですね」
「本当さ。ま、今に見ていろ」

 結果からいえば、この計画は頓挫する。理由は資金不足であった。見たこともない機械の開発に出資しようとする酔狂な人間など、どこにもいない時世である。宗一郎には、大まかな設備をそなえた、しかし作る物の何もない、急ごしらえの工場だけが残された。
 あるいは天は、そうした形で、本田技術研究所が織機のメーカーとなることを阻んだのかもしれない。それに代わる贈り物が用意されていたかのように、願ってもない品物が、宗一郎にはもたらされるのである。


2001年1月24日:本田宗一郎物語(第35回) につづく



参考文献:「本田宗一郎物語」宝友出版社、その他


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