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2001年1月31日:本田宗一郎物語(第42回)

  本田宗一郎物語(第42回)

 本田宗一郎の発想には、他者と基本的に異なる点がいくつもあった。エンジンのサイズもその一つであった。アメリカのハーレー・ダヴィッドソンを代表格に、オートバイは大きいエンジンから歩みを始めるのが通例であった。日本のメグロや陸王など、戦前の名車と呼ばれたオートバイも例外ではない。宗一郎ひとりが、小さいエンジンからスタートを切ったのである。小型で軽く、馬力が出しやすい2サイクル・エンジンに宗一郎がこだわりを見せた理由もそこにあった。
 今はそれに祟られる形で、宗一郎は苦境に追いつめられていた。だが、その宗一郎を救うきっかけとなる細い光も、同じ方向から射し込んできたのである。

 姿の見えない新型エンジンを求めて、宗一郎は苦吟していた。
 2サイクルエンジンには、排気の際、混合気の一部が逃げ出してしまうという点や回転が上げやすいからこそかえって問題となるエンジン音、といった問題点があり、一方4サイクルには、複雑すぎて重くなり、燃焼室の形状に制約があり圧縮率が上げられない、さらには摩擦抵抗によるパワーのロス、といった問題があった。これらを一気に解決へと導くエンジンは、やはり幻にすぎないのだろうか……。
「あの、おやじさん」
 おずおずと部屋に入ってきた従業員のひとりが、出口のない宗一郎の妄想をさくりと断ち切った。
「また例の男が来ていますけど……」
 目を閉じてソファにもたれ、両脚を長々と床に投げ出していた宗一郎はため息をつき、
「またか、根気のいいこったな」
 つぶやきながら、背を伸ばしてソファに座り直した。
 例の男とは、外車のディーラーである。ビュイックに乗っている宗一郎のもとに足繁く通っては、何とか別の車を売り込もうとしていたのだ。
「今はそれどころじゃない。今日は忙しいからまたにしてくれって……」
 言いさして、宗一郎は立ち上がった。少し気分を変えてみようと思い直したのである。

「いやいやいや社長、相変わらず景気がおよろしいようで」
 応接室に出てきた宗一郎に、ディーラーの男は全身を使って愛想をふりまいた。
「今日は特別な車をお持ちしまして、はい。きっとお気に召しますよッ」
「わかったわかった、見せてもらうよ」
「いよッ、そう来なくっちゃ」
 ディーラーは、宗一郎の背を押すようにして工場の外に出た。車寄せに置いてあったのは、ぴかぴかに磨かれたイギリスのMGである。オープンタイプの流麗なボディを目にして、不愛想を塗り込んだような宗一郎の顔が、ふっとほころんだ。それを見ていたディーラーの男が、すかさず声を発する。
「ねえ社長、ヨーロッパの車はさすがに違いますよねぇ。形に品がある。たたずまいに格調ってもんがある。ほら、社長にぴったりですよ」
 美しい自動車を眺めているだけでうれしく、宗一郎はつい調子を合わせた。
「またうまいことを。あんたも商売上手だね」
「いや、ほんとですって。おほほほほ」
 ちょっとエンジンルームを見せてもらうよ、とディーラーの男にことわって、宗一郎はMGのボンネットを開いた。さまざまな銀色を主体にした精緻なメカニズムが、整然としたレイアウトで広い空間に収まっている。ほれぼれとするような眺めに、宗一郎は目を細め、猫が喉を鳴らすときの表情になって視線を転がした。
 ある一点を見た瞬間、その顔がさっと変わった。
「さすが社長、お目の付け所が違うッ。この車のエンジンはいわば時代の最先端を行く方式でして」
「OHV、そうだったな」
「左様でございます。まだまだ世界の車の大勢はサイドバルブが占めておりますが……」
 その続きを聞く者はいなかった。宗一郎は、工場めがけて走り出していた。

「河島はどこだ? 河島を呼べっ!」
 突き飛ばすようにドアを開けると、宗一郎は、今では腹心の部下に成長した河島喜好の名を呼んだ。工場の奥からすぐさま現れた河島と、それを囲むように集まってきたメカニックたちに、宗一郎は興奮さめやらぬ表情で大きな声を放った。
「オーバーヘッドバルブだ。OHVでやればいいんだ! なんで気が付かなかったんだ、俺は馬鹿だな」
「え。OHVをオートバイのエンジンにですか……」
 河島を中心に当惑を隠せずにいる一同に向けて、宗一郎はいちだんと声を張った。
「そうだ。今までおれが4サイクルに踏み切れなかったのは、サイドバルブ方式では圧縮比が上げられなかったからだ。OHVを採り入れれば解決だ!」
 一同が当惑するのも無理はなかった。理想に近い燃焼室を用意するためにオーバーヘッドバルブという方式があることは、日本のエンジニアも知ってはいた。しかし、高度な加工精度、工作精度が要求され、日本の一民間企業が開発できるというものではなかった。理想のエンジンではあるが、まさに夢の技術だったのである。まして、小排気量のオートバイのエンジンにオーバーヘッドバルブが有効かどうか、誰も推測できなかったのである。
 したがって、若いメカニックが、
「すばらしい考えだとは思うんですが、そんなことができるんでしょうか。たとえばエンジンの重量や構造などの……」
と言うのも無理からぬことであったが・・・・。
「ばかやろおおおーっ!」
 宗一郎の怒声が久しぶりに工場いっぱいに響きわたった。と同時に、若いメカニックの頬に、満身の力をこめた宗一郎の鉄拳が飛んでいた。
「何もやっていないうちから、できるのできないのとつべこべ言うな!」
 しん、と静まり返った一同に、宗一郎はさらに大きな声で言った。
「いいか、うちが4サイクルを手がけるなら、絶対にOHVで行く。このエンジンができれば、うちは日本のトップに立てる。そして次に目指すのは、世界一のオートバイ・メーカーだ!」
 世界一という言葉に、声と動きを失っていた全員がにわかにざわつく。
「そうだ、世界一だ。その第一歩がこのOHVエンジンだ」
 宗一郎の顔に、次の獲物を見つけた歓喜と輝きが、数か月ぶりに戻ってきていた。


2001年2月1日:本田宗一郎物語(第43回) につづく



参考文献:「本田宗一郎物語」宝友出版社、その他

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